[隨筆] 外交は踊る [49] : 崔浩中   -   번역 [飜譯]/韓日飜譯 [한일번역]

 

h. 崔侊洙長官
崔侊洙長官は私と高等高試7回合格同期である。しかし私はやっとのことで高試に合格したのに
対し彼は堂々と首席合格したものだ。
1956年二人一緒に外務部へ入った後, 彼の昇進はいつも私より一足早かった。私が先だったのは海外勤務務めが一歩早かった事と、大使職を先に受けた事実のみだ。
私が駐美大使館で末端外交官として勤務している頃、彼は外交官海外硏修でワシントンにあるGeogetown大学へ来ていて私達は週末になると一緒に楽しい時間を分ち合ったものだ。
海外硏修を終えて帰国した彼は、在外公館勤務をしなかったにも関わらず私より先に書記官へ進級した。そして駐日大使館と駐美大使館で私と一緒に勤務した。彼が政務の方で勤務したのに対し私はいつも経済の方だった。
彼が私を先立ち始めたのは1971年外務部亞洲局長に居た頃國防部軍需次官補に榮轉する時からだった。その時私は駐美參事官だったが彼の消息を伝え聞いた金東祚大使はすごく気持良さそうだった。そこにはそれなりの事由があったのだ。その時まで想像も出来なかった金日成宣伝広告がワシントン・ポスト紙に揭載されるや、これを塞げなかった責任を問い、外務部で崔光洙參事官を本国へ召喚したし、これを金大使が大変すまなく考えていたのだ。その崔光洙氏が国防部の要職である軍需次官補に榮進されたのですごく喜んだ事と思われる。
金大使が出勤挨拶をしようと大使室へ入る白石柱國防武官を見るや「崔光洙が白将軍の上官になったぞ.」と言った。白石柱将軍が何の謂れか知らずにポカンとしていると、「崔光洙が軍需次官補になったが、その座は中將T/Oと言うから白将軍の上官ではないか」と言ったのだ。白武官の表情がすぐ固くなり「それは不可能な事でしょうに」と言うや、金大使は「何が出来ない事か、すでに正式発令が出たんだよ.」と面白がった。
士兵出身の崔次官補は慣れない国防部へ行った後、軍將星等の視線が柔らかくないし、持て成しも温かくない中でじっと我慢しながらうまく耐え抜いた。次官補要職に上がった事を祝う座で、灰皿にウィスキーをいっぱい注いで、「私達はこのように飲みます.」と言いつつ数名の將星が代る代る突き出すのを崔次官補は何も言わず全部受けて飲んだ後、這うように座を離れたこともある。そうしながら彼は少しづつ国防部の体質に同化して行き、期待を飛び越えた業務遂行能力を認められ、間もなく国防部次官に昇進した。三十八歳の若さだった。
一年を少し過ぎて崔次官は国防部から放れ朴正熙大統領の儀典首席祕書官になった。巨軀の崔
秘書官は短身に属する朴大統領の後ろに従いながら身持ちにすごく気をはらわねばならなかったし、それで彼の丁寧な態度はより目だったものだ。
10・26事件で朴正熙大統領が弑害され、崔奎夏大統領がその後を継ぐと崔儀典祕書官は秘書室長になった。外務部で長官と局長だった関係が、大統領と秘書室長の関係に代りながら彼等の間は一層敦厚になった。
崔大統領が退き全斗煥大統領が導く第五共和国が樹立するや、政務長官と遞信長官を務めた崔長官は、1983年の春駐サウジアラビア大使に任命され、まる十一年ぶりに外務部へ復帰した。私はマレーシアからベルギーに移る間にソウルへ寄り、彼が外務部へ戻ったことを祝いつつ彼との再会を喜んだ。
その時までまったく予想出来なかった事だが、私は1985年末に駐サウジアラビア大使の座を崔大使より受け継いだのだ。崔大使は駐UN大使に転任されてニューヨークへ赴き、八ヶ月目に外務部長官に任命された。早くも外交に意を含み、高等考試三部の外交部門で首席合格して公職生活を外務部から始めた彼にそれより大きな喜びはまたと無かったろう。彼の喜びは私とわが同僚全部の喜びでもあったのだ。
崔長官は就任すると共に尾を引いて起る幾つかの難題を立派に解決した。日本文部相(わが国の教育部長官)がわが国に対する侮辱的な文を雑誌に寄稿して物議を起すや、静かに対日接觸を通じて日本総理大臣が彼を罷免するように誘導した。
アシアン・ゲームに参加したイラン選手数名が、イラク總領事館へ飛び入って亡命を要求する事が起るや、彼等をノルウエーへ行かせて事態を丸く治めた。
金萬鉄一家が北朝鮮から脱出して日本へ渡り暖かい国で生きたいと言った時、彼等をよく言い聞かせて台湾を経てソウルへ連れて来た。
KAL旅客機が空中爆破する恐ろしい事件が起るや、時限爆彈を機內に架設した金賢姬容疑者をソウルへ連れて来る外交交渉を成功的に陣頭指揮した。
1987年と88年の二年に渡り私は公館長會議參席のため帰国して崔長官と嬉しく出会ったが、崔長官は私を特に暖かく迎てくれた。職業外交官の中で先任になる私は、公館長の代表資格で崔長官と度々接觸しなければならず、色々な集会で簡単な挨拶を述べる責任を果たさねばならなかった。
その中で最も重要な事だったのは盧泰愚大統領主催の靑瓦台晩餐だった。崔長官はその晩餐を前にして静かに私を呼び、晩餐が終わった後余興を行わねばならなさそうだが、その時司会を務めてくれと言う。盧大統領は88オリンピック組織委員長の時から公館長會議の度に彼等一行のための晩餐や余興の座を設けて来たが、靑瓦台でもその行事を続けるそうだとの事だ。
私は元々人々の前へ出るのを渋り、従ってそのような集まりで司會を行ったのが全無と言える程だったが、出来ないと言える立場でもなかったので仕方なく受けたものだが、その日に限って事が上手く運ばれ、私は別に緊張せず靑瓦台行事を無事に進行させる事が出来た。
公館長代表五,六名が歌や自慢の特技を披露した後に私は崔長官にも歌を唄う機会を与えようと考えた。歌が実に旨い彼が大統領の前で唄える機会は稀れだろうと考えた故だ。私は彼を指名しながら、崔長官は美国のShultz国務長官に比べて少しも劣らない体躯を誇っているが、体躯より優れたのが外交手腕で、外交手腕よりもっと優れたのが歌だとつり上げ、一度聞いてみたら解ると述べた。
崔長官は羅勳兒の「遠過ぎる故郷」を難なく唄い滿場の拍手を受けた。だがその集会を終えて、ほんとによくやったと称賛を受けたのはなんと私だった。そんなに司會を旨く行うとは夢にも思わなかったと言う。盧大統領も私の腕前が気に入ったようだった。
公館長會議を終えて任地へ戻った私はその年の終りが近付くや、そっと帰国準備を始めた。別途の人事措置が無い限り私は外務公務員法により、その年で停年退職を迎える事になっていたのだ。
そんな中で私は崔長官から国際電話を受けた。考えた末私を特任公館長に任命して駐EC大使に轉補しようと內定している故、気に入らないだろうが了解してくれとのことだった。私は彼の友情の篭ったこの配慮を有り難く思った。実は、駐EC大使は私が駐ベルギー大使として兼任していた職責なので、その座に再び行く事に気乗りはしなかったけれども、隱退に先立って2、3年悠々と自適するには悪くないとの考えが浮かんだのだ。
それが、年末に受けた発令は実に意外なものだったので私をすごく驚かせた。私が崔長官の座を受け続く事になったのだ。崔長官は全斗煥大統領時代外務部長官に任命されて、盧泰愚大統領へと続かれながらもその座を守って来たが、五共淸算の波で我彼無く全部座を引くしか無いようになったし、それで外交に経験ある候補の中で後任者を択んでいるうちに私が択ばれたようだった。
兄ほどの弟は無いし旧官が名官との言葉があるが、はたして私が彼の後を巧く続けて行けるだろうか気になったけれども、私だって出来ない筈無いだろうとの心構えでソウルの土地を踏んだ。
崔長官と私の事務引継ぎはすごく圓滿に行われた。前任後任間の事務引繼きがあれ程和氣靄靄な雰囲気の中で行われるのは実に良い眺めだとみんなが喜んだ。これは私達の間の変ること無い友愛を反映する事でもあったのだ。
私はまだ盛んに働く歳の彼を野人として送り出す事になったのをすごく哀惜に感じた。彼は五十四歳だった。その時まで世の中に良く知られていなかったし、その後ずっと経ってから総理職を受けたり大統領候補になる等で世の中に知られるようになった李會昌や李洪九が、崔長官と高等学校同期生で、彼等よりずっと先立って出世街道を乘勝長驅していた崔長官は彼等のうらやましい対象であったはずだ。

*マッカーサー将軍は軍生活を閉じながら
“Old solders never die. They just fade away.‘との有名な言葉を残したが、
私はどんなに考えても終りをすてきに閉じるような言葉が浮かばない。
ただ「老馬は留まらない。ただ死ぬ日まで踊るだけだ」と独りごと言うのみだ。