[隨筆] 外交は踊る [44 ] : 崔浩中 - 번역 [飜譯]/韓日飜譯 [한일번역]
c. 金東祚長官
金東祚長官はいわばDJ師団を導いた勇將として良く知られている。資質が認定される部下、それに自分を信じて従う部下達の面倒を良く見て率いるとの事で付けた名だ。金大中大統領がDJでより広く知られているが、外務部ではDJと言えば直に金東祚長官を指す言葉として受け入れた。
しかし金長官は二年余りの長官時代がさほど華やかではなかったし、明瞭な業績も残さなかった。それは能力不足では無く時代に恵まれなかった為だ。
1973年末に金長官が駐美大使在任中で外務長官に任命された時、全世界に渡り第一次オイル波動が盛んに起っていた。原油価格が急騰し、その上産油国が供給を制限したからだ、一粒の油も出ないわが国としては死活がかかった重大局面を迎えたわけだ。
この難局を解決する重策を携えて崔圭夏大統領の特使がサウジアラビアを訪問し、油を貰うことに成功して帰国するや、朴正熙大統領は一等功臣が帰って来たと喜んだ。就任したばかりの金長官としては座を整えぬ前にこのような良い仕事を奪われた恰好になったのだ。
翌年の8・15国慶日の慶祝式場で朴大統領狙擊未遂事件が起って陸英修女使が逝去し, 犯人文世光が在日僑胞である事が割れるや、これが韓日間の外交問題に飛化された. 金長官は日本政府の謝罪と再發防止の保障を受け出す事に精力を入れたし苦心も多かったけれども、その大いなる悲劇から湧く民族的憤怒が何よりも大きかったので、金長官は残念ながら自分の勞苦に対してまともな評價を受けられなかった。
1975年8月にペルーのリマ(Lima)で非同盟外相会議が開かれるや、金長官は強力な代表団を導いて自らリマへ向かった。非同盟加入を実現する為の、現地での大詰め交渉を陣頭指揮するためだった。しかし骨折った甲斐も無くわが国の非同盟加入は否決され、北朝鮮の加入のみ可決される最悪の結果が現れてしまったのだ。それは、參謀陣がこの仕事をすごく容易に考え全うに補佐出来なかった故でもあるが、万事を細密に問い正さず度胸で押し出す金長官の考えの為でもあったのだ。
その年の冬、UN総会でまたもや異変が起った。韓国の立場を支持する西方側決議案と北朝鮮を支持する共産側決議案が一緒に通過されたのだ。それは本質的に相反する二つの内容を全部良いとの、言わば東に行っても良いし西に行っても良いといった矛盾を現わしたものだったが、それよりも韓半島問題に関する共産側決議案がUN総会で最初に通過したとの点で我我には一大の打擊であったのだ。
この時も自らUN総会に参席していた金長官が暗い心で帰国するや、靑瓦台で御前会議が開かれてUN対策が論議された。金長官はこの場で、韓国問題のUN上程方針を固守する事を建議し、朴東鎭駐UN大使は自動上程止揚を建議したが、金長官の建議は受け入れられなかったばかりか長官の座を朴大使に譲るはめになったのだ。1975年12月の事だった。
その時私は駐ジュネーブ代表部で勤務していたが、翌年の一月に本部へ轉報され帰国した直後、明倫洞の屋敷へ金長官を訪問した。暖かく迎えて下さる長官の表情は意外に明るかった。長官の座から降りて身も心もすごく安らかだが、三つのことだけが惜しいと言う。乗ったら動く自動車、入って座る事務室、それにお茶を入れてくれ電話を受ける女性秘書が一時に無くなったことが物寂しいと声を上げて笑うのだった。
私は金長官とは古い縁を結んで来た。私をDJ師団に属すると見る側も居る一方、そうで無いと見る側も居るが、私は金長官が次官だった時は秘書を務めたし、日本と美国では大使として仕え、長官の前半期には通商局長として補佐したのだ。
私が金長官に初めて会ったのは外務部に入って間も無い1956年の春頃だった。その時金長官は政務局長だった。儀典局に配置された私は金局長に業務上で直接対面する機会が別に無かったが、翌年長官秘書室で勤務する事になり、初めて秘書として接触する事が出来たのだ。
私は秘書室で勤務を始めながら秘書室長に導かれて各局長室へ赴き挨拶をすることになった。誰もが私を暖かく迎てくれたが、ただ一人金東祚政務局長だけは少し異なった。私を前に立たせて置いたまま、祕書室長以外に自分の下で働いていた政務局出身祕書が居るのに何の秘書がまた必要なのかとつっけんどんに言うのだった。
外務部へ入って以来政務局長と儀典局長との間が良く無いとの噂を度々聞いていたが,それが事実である事を直感した。儀典局出身の長官祕書を思わしくなく考える気持が明らかに表出されたのだ。何も言えず顔を赤らめている私を急いで部屋の外へ引き出した秘書室長は、金局長は元々性格がそうであるだけで他意があるのでは無いと私を慰めてくれたが、私の心はそう容易くほぐれなかった。
それが、数月も経たないうちに曺正煥長官署理が長官に任命されるや金東祚政務局長が次官に拔擢されたのだ. しょうことなしに秘書として金次官を直接仕える事になった私の心はどうしても明るくなれなかったが、それでも丁寧に、誠意をこめて仕えた所為か、私を見る金次官の目は段々柔らかくなった。そうする中で、一年半に渡り秘書室勤務を大過無く遂行したためか私は誰もが行きたがる駐美大使館への発令を受け、外交官として初の海外進出に到った。
今もそう信じているが、私が駐美大使館へ赴くことになったのは大変な海外勤務の初出発だったが、私の外交官生活が順坦で成功的である事を予約することえもあった。だからこそ私は道を開いてくれた金長官の恩恵を忘れることが出来ない。
金長官は外務部次官から退いた後、長官になるまでいろんな分野で多く活躍したが、何と言っても大使時代が彼の生涯での全盛期だったと思われる。駐日大使と駐美大使との二要職を経たのも稀れな事だが、金大使はその難しい二つの座で立派に所任を成し遂げたのだ。
日本では、韓日会談を妥結する主役を担当した。日本で大学を終えた金大使は日本語も流暢な上に日本人の内心をじっくり覗く慧眼を持っていたし、日本政治人が主に楽しむ料亭での「夜の外交」にも巧みだった。
韓日会談を進行する際、大体高位層間の骨格を組む仕事を以て会談場の實務陣間で論難が開かれると、金大使は日本側の相手役である牛場外務審議官と後座に居座って督戦をしたり、適当な線で図太く構えて合議してしまいながら交渉妥結を導いた。
韓・日間の基本條約や諸協定に署名もし、初代駐日大使の栄光を享受もした金大使は、その功勞を高く評価されて1967年の秋に駐美大使に榮轉され、その座でのみ六年間再任したのだ。
金大使の英語は、日本で修學した人が皆そうであるように発音が少し可笑しかったが、それが却って相手を傾聽させる作用をなした。梁裕燦前駐美大使の英語は顔を見ずに話だけ聞いていれば美国人とちっとも変らないので、却って聞く人の関心を少なく引いた事と對照的だった。
金大使はNewsweek誌がCover storyにしたワシントン外交界に関する記事で、100余名に到る駐在大使の中で最も活動的なスター大使五名の中の一人に択ばれ、その写真が表紙に載せられもした。
金大使がDJ師團を導く猛將と呼ばれるのは常時莫强な參謀陣を率いて居る故だった。崔奎夏長官が、すでにワシントン勤務を行なった事のある私を再びワシントンに発令したのは、金大使の強力な要請を無視することが出来なかった故でもあった。
当時、駐美大使館の核を成していた參事官級陣容を見ると、経済を担当した私以外に崔侊洙政務(後に外務長官), 金東輝經濟(後に商工長官), 申東元常務(後に外務次官, 駐獨逸大使), 李相玉政務(後に外務長官)等の面々だった。
金大使が外務部長官を終えて野人になった時、美国の朝野で朴東宣事件が騒々しくなり、続いて金長官が駐美大使在職の時、ロビー(lobby)活動をしたと問題になったことがある。
議會重鎭等に金品を与えて買收工作をしたとの嫌疑だった。美国議會は金長官を召喚までしようとしたが、それは絶対受け入れられない事で、一つの妥協案として質問書を送ってくれれば書面で答えることに了解された。
質問書が送られると私は金長官の答辯書作成を補佐することになった。不愉快この上無い質問が金長官を憤怒させたが、一旦了解された以上答弁書を送らないわけにはいかなかった。「金銭封筒が入った鞄を持って美国議会へ出入りした事があるか」との初問に、金長官は一生を通じて金銭が入っているか、いないかに関わらず鞄を持ち歩いたことは無いと答えた。
議員等に御土産を送ったことがあるかとの質問に対しては、東洋の習慣によって結婚など慶事に土産物をわたした事はたまにあり、Johnson大統領の令嬢結婚にも御土産を送ったことはあるし、自分の娘の結婚には、多くの米国人より土産を受け取ったことがあると答えた。
訪韓された議員等に手厚く接待し金銭をあげたと言うが事実かとの質問に対しては、我が国を訪れた外国客を丁寧にもてなすのは東方礼儀之国の美風であり、突然換錢することも煩わしいと思って小銭を少しあげた事はある」と答えた。
質問が無礼だったわけで答辯も不孫だったが、美議会はそれ以上騒がしく行動しなかったし、この鷹揚な答辯で問題は治まってしまった。
かように度胸の良い金長官であったものの国会へ出て質問に答えるのはすごく厭がった。それで、毎年二月中旬から開かれるUN総会を良い事に長官は長期間ニューヨークに留まりながら秋の定期国会を避けた。国会がどれ程やかましく振舞っても彼はびくともせずそのまま持ち堪えた。これは実に彼特有の太っ腹の所為である。
駐日大使の頃国会の國政監査団が訪れた時、金大使は各參事官へ所管業務に関する報告をなるべく仔細にするよう指示した。日程が決まっている故、報告を長く行なって質問時間を引こうとの計略だった。各參事官に続いて他の部所駐在官にも報告するようにと言うや、金大使の意図をよく知っている獎学官は、その優れた弁才を以て長々と在日僑胞子女に対する教育実体を説明したのだ。
監査団の一人である柳珍山議員がその内心を看破して簡単に報告せよと言ったが、獎學官はすぐ終わると言いつつ続けて説明し、結果的に時間へ追われた監査団は、金大使を窮地へ追い込む質問が出来なかった。
金長官は外務長官の座を退いた後、石油開發公社の社長に任命されもしたが、若い動資部長官に腰を曲げるのは嫌だと、その座を断った。長官を行なった人が国營企業体の長になるというのは適切で無いと言うのが彼の持論になった。
その後金長官は野人としての自由な身で寒い冬や蒸し暑い夏になれば夫人と一緒にハワイ等地へ避寒に行ったり好きなゴルフを楽しんだりした。結構な身分で老後をたっぷり楽しみつつ悠悠自適する生活態度が実に羨ましく感じられたものだ。
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