[隨筆] 外交は踊る [43] : 崔浩中 - 번역 [飜譯]/韓日飜譯 [한일번역]
9. 歴代外務長官と私
a. 李東元長官
大統領秘書室長、そして駐泰国大使を務めた李東元長官が外務部へ初登庁した時私は駐日代表部に勤務していた。実に意外な人事であったし、四十歳にもならなかった若い歳で長官の座を上手くこなせるだろうかとの疑いまで感じたものだ。
韓日会談を妥結せねばならぬ重策を担って外務部を受け持った美男型の長官が1964年の秋に日本を公式訪問した時東京の警戒はすごく森嚴だった。朝總聯, それに日本內左翼系の乱動が気がかりだった故だ。飛行場より迎賓館へ向かう車道には50メーター間隔で警官が立ち並び、車両運行は完全に統制される程だった。
四十歳の李長官と七十歳の椎名大臣が韓日国交頂上会議の突破口を探そうと数日間色々と骨を折ったけれども虛事で終わり、最初に約束した公式訪問其間が終わると李長官は日本政府で提供された迎賓館から出て、「伊豆半島」観光地で終末を送った後再び東京へ戻り、ヒルトンホテルに入った。それは外交官の慣例から切り抜けた處事だったが、李長官が会談妥結の糸筋を探せないまま帰国することは出来ぬとの頑張りには日本側でどうする術も無かったのだ。
李長官は日本から帰国するや直にソウル大学病院に入院した。心身の疲労が大きかったようだ。李長官がベッドの上で憔悴した姿で座っている写真が新聞に揭載までされたが、それを見る讀者は錯雑な心情だったことだろう。
その際何らかの進展があったわけでは無かったものの、李長官のかような度胸、わが交渉陣の粘り強い努力、そして国交正常化をこれ以上伸ばすことは出来ぬとの韓日頂上決意等が一つに固まって作用された結果で、あれほど難しく見えた韓日会談が、ついに14年間にわたる迂餘曲折の末妥結を見るようになったのだ。
1965年6月22日、佐藤榮作日本首相官邸で韓・日国交正常化の基本條約,その他色々の協定が署名される循環を私が直接現場で見守る事が出来たのは末長く記憶に残る感激だった。側で見守る私がそうだったからには、交涉を主導した責任者として文書に直接署名する李長官の心情は如何ばかりであっただろう。
署名式に続き、別館で行われた祝賀宴では誰もが喜色満面だった。佐藤首相がそうだったし、李長官,椎名外相がそうだったし、金東條駐日大使, そして私がそうだった。酒数杯で気持好く酔った李長官は椎名外相をためらわずに「兄貴」と呼んだ。歳を見ても、徑輪によっても、その時の雰囲気を見てもそのように呼むのが正しいと私は感じたが、その事を新聞記者の誰かが盗み聞きしては居まいかと私は回りをすばやく窺った。新聞に何と書きまくるか知らぬ気遣いからだった。
韓日両国政府はかように難しく妥結を成した本條約と数々の協定を国会で批准を受ける過程では数多くの苦しい思いをしたものだ。独島の領有権問題が焦点の一つだった。国会で、なぜ日本政府より韓国の独島領有権を認める文書を受けられなかったのかと問い詰めるや、李長官は、自分と共に暮している妻が確実に自分の妻だとの証明書を隣りの男から受け取って来る必要が何処にあるのかと言い返した。
日本議会で、韓国が竹島(牘島)を自国の物だと言うがどうした事かとやりこめるや、椎名外相は「すごくけしからんと思う、と短く言ってしらばくれたのだ。
その年の12月18日、ソウル中央庁大会議室で批准書が交換される座に私も参席する栄光を享受した。駐日代表部は駐日大使館に変ったし、金東祚大使は初代大使として、金馬車に乗って宮城へ入り、日本天皇へ信任狀を提呈した。
1966年の春、私は三年間の日本勤務を終えて本部へ戻り通商局通商振興官になった。しかし李長官に会える機会は稀れだった。李長官は健康が優れないので長官室を開ける時が多かったし、文德周次官が長官を代行することで大変苦労をしたものだ。
その年の秋、パリで開かれる欧阿地域経済擔當官会議に参席する為、私は外務部生活十年目に欧州の地へ初足を踏み入れた。中東の数ヶ国を訪問して帰国する途中パリに寄ってその会議に参席された李長官は、会議の始まりで、久しぶりにパリへ来たからには会議も良かろうが、夜景を心行くまで楽しむようにとの一言で満堂の歓迎を受けた。それは我等みんなが、念仏に関心の無い坊主だったのを李長官が看破して言った言葉だった故だ。
李長官は在任二年半目に座より退いた。その後、国会へ進出して外無委員長まで務めた李長官は、再び外交界へ戻り1973年8月より一年間駐スイス大使を務めた。しかしそれは彼の経歴から見て似合わない座であったし、其の座を与えた側も受け持った方も考えが少し足りなかったのが確かだったからだ。
月日が流れ1988年の末、思いも寄らず私は外務部長官になった。他の部所では長官になると歴代長官を迎えて高見を承るとの名目で晩餐を開くのが常例だが、私はそれをやらなかった。一つの座に招くのが難しい人物が多かった故だ。
それが、ある日李長官がかえって私を招待したのだ。自ら経営する国際学術院で私を演士とする晩餐の集まりを持つとの事だった。私はこれを快く承諾した。
李長官は晩餐で私を紹介しつつ、今までの外務長官は半分外交だけを行なったが、まともな外交をおこなっている人がまさにこの人であると私をおだてるのだった。北方外交の成功で全防衛 外交が可能になったのを以ての話だった。課長として自分の下で働いていた部下が長官になった事に感心する思いの言葉でもあったのだろう。
その話を聞きながら、私は自分がまっとうな外交を行うようになったのは、私のみの力では無く、歴代外務長官、特に李長官のおかげであることは間違いない事実である事をを心の中で反芻して居た。
b. 金溶植長官
金溶植長官は1973年の夏外務部に国際経済局が新設されるや、私をその局長に拔擢して下さった恩德のおかげて私が一生忘れられぬ方である。それも、坊主が自ら頭を刈れぬようい一度もお願いしなかったにも拘らず、公務員生活を通しての花と言われる中央部署の局長座へ私を座らせたわけで、その有難さを示す術が無かった。
金長官を私が初めて対したのは外務長官秘書時代の1957年初だった。当時金長官は駐日代表部を担った特命全権公使だった。政務協議のため一時帰国して、外務長官室に姿を現わした。すらりとした伸長で髭を生やした秀麗な風貌、黒色のオーバコートに白い絹マフラーを巻いたすかっとした姿、まさに典型的外交官の素敵さが全身から漂っていた。
当時の与論調査で結婚相手に外交官を択ぶ女子大学生が端然トップを占めたのは実にこれだからだと直感出来たし、そのような風采を持って生まれなかった自身が気の毒にまで思われたものだ。
金長官はその後柳泰夏公使に押されて駐日公使の座から退き、フランス、ジュネーブを転々する悲運を味ったけれども、4.19以後の民主党政権時代には外務次官に抜擢されて我が外交界の至宝的存在との評価を一部より受けもしたものだ。その後駐英大使に榮伝されたが、5.16軍事革命が起こるや、今度は李亨根註フィリピン大使に押されてロンドンからマニラへ座を移さねばならぬ侮辱を受けもしたものだ。
英国政府は自国を無視するようなこの仕打が苦々しかったろう、長久な外交経験で受けた圓熟味を生かせて公式送別宴を設ける破格的な礼遇で金大使を慰めた。
それが金大使はマニラ在任七ヶ月目に第十代外務部長官に任命されたのだ. それこそ轉禍爲福であり、錦衣還鄕だった。その時私は本部に居たが、二月後に日本へ行ったので金長官を近くで迎る機会が無かった。私が金長官に直接仕える事が出来たのは彼が駐日大使を経た後、二度目の外務部長官に再任中だった頃だった。
1972年初夏のある日、私はワシントン勤務二年が少し経った頃意外にも本部へ帰れとの轉任発令を受けた。通商振興官という副局長資格の座が私に与えられたのだ。突然その座が空席になり、後任を探すうちに尹錫憲次官の薦擧で私が択ばれたのだった。それは、大学で経済学を專功したわけではないけれども外務部に入った後偶然な緣由で通商の方の仕事を多く成して来た私の背景のおかげだった。
その頃は輸出立国とか通商外交强化とかと言って輸出政策に力點が与えられていた關係で, 私の座は脚光を受けたし働く楽しさもあったのだ。
毎月朴正熙大統領主宰の下で開かれる搜出振興會議で発表する外務部報告を準備する職責なので私は金長官を度々会うことが出来た。決裁を受ける事がすごくややこしいと知られていた金長官だったが、私は別にこれといった厳しさを味わなかった。
私が金長官にもっと接近出来たのは、その年の夏金長官が印度とフイリっピンを公式訪問する時だった。私が隨行員の中の一人になったのだ。私はこの二国を初めて訪れる機会を呉れた金長官に、なにかと報いればとの考えで毎朝早く起きて朝刊新聞を眺め回し、わが国に対する記事、それに主要国際記事を金長官にブリピンした。
金長官はこれを実に有益だと考えたのかその年の秋、西ドイツ、英国、そして美国を公式訪問する際私を再び隨行員の一人に入れてくれたのだ。で、私は生まれて最初の世界一週旅行を経験する事が出来、その上、外相会談を円熟に進行させる金長官の優れた技に感嘆しつつ多くの事を習った。
金長官は性格とか身嗜みなどが精錬されていたが、最も精錬されていた事は話し方だった。日本留学時、全国対抗英語雄辯大會で堂々と優勝し、日本高等文官試験合格で弁護士として優れた技を見せた事実だけでも、彼の言弁がどうなのか容易く汲み取ることが出来る。
国会外務委員会で質疑応答を行った際の事である。当時は野党に属していた若い血氣の吳世應議員が、金長官は答えしにくい質問はさっと外して答弁する場合があるから一問一答で行こうと言うや、金長官は、限りなく多い質問を一時に受けて見ると、心ならずも一つ二つ漏らす事もある故一問一答が却って良かろうと応酬した。呉議員が金長官の表情は何故か他人をあざ笑うようで気分が悪いと言うや、金長官は生まれ持つ表情を直すことも出来ないし、手術を行う事も不可能で実に困っている故、どうか了解して欲しいと応えた。
呉議員が、外交を正々堂々と行わずにアフリカ等地の弱小国に小切手を回すとのことが事実なのかと畳み掛けるや、金長官は物資援助より銭を欲しがる国々がたまに居るので、現金を包んであげる事が出来ない故仕方無く小切手を送る場合がたまにはあると受け流した。小切手で後進国の票を買受しているのではないかとの叱責を、巧みに受け流す実に経験と老鍊味の差が見せてくれる判然なる勝敗の表出だった。部下職員等もたまには金長官の話の眞意が何なのか見分けが難しい場合が多かった。心の中では南側を考えながらも言葉では北側を示すようにして相手に鎌をかけるのだ。それを感知出来ずにすばしこく北の方へ走って大変な目に会う職員も少なく無い。
金長官は部下職員を評価する際、能力と一緒に態度を重視した。外務部へ一旦入った人は一定水準以上の能力を整えていると見れる故、却って重要な事は態度だとの考えが強かったようだ。私が局長の座へ上がったのも態度を認められた故であるかも知れない。
金長官は在任二年で金東祚長官へ座を渡して統一院を受け持ったが、再び外交界へ復帰し, 駐英)大使と註美大使を歴任した。しかしながら老益壯をひけらかしてた金長官も公職生活(공직생활)には限界があるのをどうする事も出来なかったのか、駐美大使を最後に1981年官職より引退した。
金長官は実に官運が良くて華麗な経歴を誇りつつ数多くの業績を残したけれども、あれ程願っていた一つの願望は成し遂げなかった。国務総理になることだった。器が他人より決して劣ることは無いのだが時運に乗れなかったのか、又は態度が上司の目に適わなかったのか、金長官には最後までその機会が満たされなかったのだ。
金長官が公職より退いた時私はマレーシアに居ながら敬意と慰勞を表明する手紙を送った。金長官はこれを有難く思ったのか直に親筆で答狀を送ってくれた。
マッカーサー将軍は老兵は死なずに消えるのみだと言ったが、静かに外交界から消えた金長官は、大韓赤十字社總裁, 統一顧問會議議長等、多彩な職責を受け持ちながらその抜ん出た經綸を以て国家や社会に奉事した。
けっれども金長官の末年は実に淋しそうに見えた。子供等が期待ほど上手く成人になれなかったし、その上早く喪配する悲運を迎えもした故だ。最後に金長官が幽明境を異にする際にせめてもの救いになったのはつつましかったけれども外務部葬で最後の道を丁重に祭ることが出来た事実だった。
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