[隨筆] 外交は踊る [42] : 崔浩中 - 번역 [飜譯]/韓日飜譯 [한일번역]
e. 盧泰愚大統領
盧泰愚大統領は私を外務部長官に抜擢して下さった。正直言って私は必ず外務部長官になろうと思ったが, なる自信はなかったしまた盧大統領にそのことを話す術もなかった。それに私は遠くサウジアラビアに居たのだ。
1988年が暮れかけつつあれほど騒ぎ立てたオリンピックの熱気が一度に収まってしまい、その代りに五共淸算の荒波が立つや、內閣でも五共殘滓が消えねばならぬとの声が大きくなり、全斗煥大統領時代から座を守って来た崔洸洙外務長官も更迭対象に上がった。
新聞等は彼等なりに後任候補を擧げつつ、どんぐりの背比べと言った。みな似たりよったりの人物とのことだ。その中に私の名前も入っていた。だが意外にもそのどんぐりの中で私が択ばれたのだ。盧大統領がなぜ私を択んだのか自ら話してくれないのを、あえて聞いてみるのも不可能な事だが、外務部でずっと育ち、それなりに無難だとの衆評が働いたのではと、私なりの判断があるだけだった。
私は盧大統領とよく知り合った中でも無かったし、盧大統領がオリンピック組織委員長をしながらオリンピック誘致に効があるとのことで、公館長会議の時毎に全公館を招待して盛大な晩餐を開いてくれたおかげて、数回座を共にした事はあったが。。。
12月5日に発令通知を受けて10日に帰国した私は、12日靑瓦台へ呼び出されて盧大統領より任命狀を受け取った。盧大統領は外交の重要性を強調しつつ私に大きく期待すると激励した。
外務長官としての私の出発は意外に順調だった。就任一ヶ月足らずでフランス・パリで開催された化学武器拡散防止の為の国際会議に首席代表として行って来たのが始まりだった。続いて就任二ヶ月にもならなかった二月初日にはハンガリーとの修交に成功、北方外交初の関門を開いたのだ。盧大統領は共産圏を含んだ社会主義圈との関係改善政策を闡明した。いわば7・7宣言初の結実をすごく嬉しがった。
かようにして私は盧大統領の信任を少しづつ受けて行った。閣僚の中で大統領と接する機会は端然私が一番だった。重要業務報告以外に、わが国を訪れた外賓の大統領礼訪や、新たに赴任して来る外国大使の信任狀提呈に陪席する仕事が少なくなかった。外務長官の職責上度々国外出張をすることになるが、その時毎に出国申告と帰国報告をなさねばならなかったのだ。
盧大統領が活発に展開した頂上外交参与の機会も少なくなかった。ブッシュ美国大統領を初めとして外国頂上等のわが国訪問がずっと続き、盧大統領夫婦が外遊する場合も結構多かった。
私が外務長官になった後、盧大統領を隨行した初の旅は1989年9月美国訪問だった。歴代大統領の美国訪問がそうであった如く、ただ平凡な訪問の繰り返しに留まらなぬよう、盧大統領の訪美日程には上・下両院合同会議での演說を含むのが良いとの意見が合ったのだ。
その議会演説の為の対美交渉は生易しいことでは無かったけれども、私が直接渡美して交渉した上に朴東鎭駐美大使が骨を折った末にやっと成事されるや、器用で骨入りの言葉含まれた演説文を整えるのが難しくて重要で、尚かようにして作成された演說をわが言葉で話すか、英語で話すかを決めるのがの問題がすごく難しかった。一国の元首である故当然自国の言葉で話せねばならぬとの主張が手強かったけれども、聴く人々がすぐ理解できる英語で話すのがより効果的で、聴く方がすぐ判る英語で話すのがより効果的で、好感を与えるとの主張が優勢なのでそれに決めたが、それは正しい決定だったのだ。盧大統領の英語演説は流暢とは言えなかったけれども、ニューヨーク・タイム紙で弊か評するように聽取するには何らの差障もないので暖かい歓迎と好評を受けた。
盧大統領のより華麗な外遊はその年初秋のヨーロッパ旅行だった。西ドイツ、ハンガリー、スイス、英国、フランスと続いた20余日間のヨーロッパ訪問はやや長い方だったけれども、差障無く進行され満足なものだった。
西独はまだ統独以前だったけれどもベルリン障壁は崩壊した後だったし、同じ分断国家より訪ねて来た国賓を迎える姿勢は丁重で馴染み深かった。ただ治安がまだ完璧でなかったので、ベルリンを訪問出来なかったのが名残惜しかった。
ハンガリー訪問は特別な意味を持つことだった。わが国の元首として最初に東欧の古い社会主義国家を訪問し、わが北方外交の成功を内外に誇示する機会になった故だ。
スイスは週末を送るための非公式訪問だったが、サマランチ国際オリンピック委員長が旧知の盧大統領を手厚く迎えてくれた。
古い伝統を誇る英国は女王で女首相といった特殊狀況下で、異色の感懷を我等に与えた。おかげ様で私はバッキンガム宮殿の午餐でエリザベス女王すぐ側に座り談笑する栄光を享受したし、サッチャー首相がダウニング街十番地首相官邸で開かれたBlack・Tie晩餐にも参席する貴重な機会を持つことが出来た。
フランス訪問は欧州訪問を閉じる有終の美を全うすることに充分以上だった。年末が近付き街道にはクリスマス粧飾で華麗だったし、かの有名なシャンゼリゼ通りにも、また凱旋門にもフランス旗と共にわが国の太極旗が仲好く並んではためく光景は我等の目と心を恍惚にさせた。
盧大統領とのややこしくて身に応えた外遊は1980年5月に行った日本正式訪問だった。いろんな両国の事情で日程が二度も延期される曲折を経たのだ。
日本訪問の場合は全斗煥大統領訪日の時もそうだったけれども、日本が我等に成した過去の過ちに対して日本天皇がどれ程の水準で謝るかが関心の的だった。
私は同じ事を以て繰り返し日本を詰めるのは上品で無いし、日本がそれを自ら弁えてくれるべきでは無いかと考えたものだが、国民情緖を代弁するといった言論の論調はそうではなかった。
この時盧大統領が日本天皇より受けた謝りの発言は、去る日々我等に成した過ちに対して「痛惜の念を禁じられない」だったが、盧大統領の日本議事堂で成した演説がより意義だった内容ですごく印象的だったし、また成功的だった。日本の過ちを貶す前に自国を守れなかった自身を悔やむべきだとの特定部分は日本の朝野へ大きな感銘を与えた。
盧大統領の数多くの頂上外交の中で白眉を成したのは1990年6月にサンフランシスコで行ったコルバチョフ・ソ連大統領との歴史的出会いと、それを元にした韓・ソ連の修交を成した後、その年の12月にあった成功的なソ連公式訪問だった。
今やこの地球上でソ連が消え共産主義宗主国より共産党が立つ場を失ってしまったが、其の時代はまだソ連と国交を成して両国の頂上が仲好く座を共にするのは夢のような事であり、これは盧大統領が熱心に推進して来た北方外交が見事な花を咲かせ、遂に充実した実を結ぶ絶頂期に辿ったのを見せる事でもあったのだ。
ソ連訪問を終え帰って十日後、盧大統領は私を副總理兼統一院長官に任命した。それから直接私に電話をかけて、モスクワへ行く道をいっぱい開いたからには、今後平壤への道を共に開いてみようではないかと、私を激励した。
平壤への道は開き辛い事のように見えたが不可能な事でも無いような気がした。ソ連と東欧圈の変革で国際環境は我等に有利な方向へと変り、かような国際的潮流の中で北朝鮮は内外で厳しさがつのっていた。私は、統一の道は北朝鮮を改革開放の道へ導くことにあり、このような北朝鮮の変化を促進する事が統一政策の核心になるべきだと確信した。
時運が好かったのか、難航を繰り返していた南北總理会談は1991年12月、ソウルで開催された第5次会談で急進展を見せ、「南北間の和解と不可侵及び交流協力に関する合意書」が署名された。予想を裏換えさせた驚くべき事だった。私は会談代表では無かったけれども、私が統一院を受け持った後にこのような急進展を成したとのことで、外務部で北方外交の関門を開いた事に引き続いて南北統一の関門も開いた幸運児との称賛や羨ましさを受けた。
副總理との職位は上がったものの、私が盧大統領に逢う機会は外務長官の時とは比べられない程稀れだった。海外出張も外務長官在任二年の間には総14回に達したが、統一院長官になった後は一年半の間ただの一度も無かった。それは大したものでもない仕事で海外には出ないといった自分なりの信條でもあったのだ。
盧大統領はでしゃばりもせず静かに自分の仕事のみ静かに遂行している私を、ただ無難だと思うような感じだった。大きく褒められもしなかったが、酷い叱責も無かった。そんな中で機会ある度私に対する信任が厚いことを見せようとした。
その例の一つで、盧大統領は在外公館長任命の際、私が提請した人事案を一度も裁可しない事は無かった。勿論、いわば巨物級公館長に対しては事前に盧大統領の意向を知ろうとの節次を踏んだが、盧大統領と独対した場で人事案を説明する度私は容易く裁可を受けることが出来たのだ。尚これは外務部内で私の位置を確実に固める事に一役を果たした。
そのおかげなのかは知らぬが、繰り返される改閣毎に任命されて一年足らずの長官等が退く事が少なくなかったけれども私は入閣三年が過ぎてもその対象から外されたものだ。それが1992年6月25日、ついに私にも終末が来た。中幅改閣に私が含まれ、座から退く事になったのだ。副統理在任一年半目で、外務長官在任其間を合せれば入閣後3年6個月目だった。第六共和国に入った後では內閣在職最長寿だった。
私は統一院を放れながら格別な感懐に浸った。遥かなる1956年4月外務部へ初足を入れて以来、長々36年以上も粘り強く続いた自分の公職生活に終止符を押すことになった事実故だった。私は公職生活の大尾を誇らしく纏めることが出来るようにしてくれた盧大統領へ感謝する心だった。一つ惜しいのは平壤へ行く道をいっぱい開け放して盧大統領に従い平壤へ行く機会を持たれないまま座から退く事実だが、しかしそれはまったく私の力だけでは手に余る事だったのだ。
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