[隨筆] 人生は踊るー崔浩中 - 번역 [飜譯]/韓日飜譯 [한일번역]
*がむしゃら : あくせく
人間の生き方は様々だ。瓜二つの顔が無いのと同じである。だからこそ人生を踊るように生きる道も違うわけだ。その中には、がむしゃらに生きる人が居ると思えば、あくせくと生きる人も居る。誰もが一生懸命生きようとする姿勢は誉め称えるべきだろう。
私達は昔から貧しい環境の中で、回りから虐げられつつ生きてきたわけか、逆境を耐え抜くためには、がむしゃらに、またはあくせくと粘らなければ生き残れない、他にはこれと言った方法がなかったような気がする。
がむしゃらに生きることと、あくせくと生きるのは、何がどう違うのだろう? 五十歩百歩と言えばそれまでだが、なぜかがむしゃらがあくせくよりは少しましな気もする。
がむしゃらとは、前向きな勇ましい面を携えている気がする反面、あくせくは、せちがらくて利己的な面をさらけ出すようで好感が持てない。自己の欲のみ満たすため他人はどうなろうが、一心にへばり付くのがあくせくした姿勢ならば、それが自己には良い方法かも知れないが、彼が属している社会に至ってはさほど歓迎される仕種ではないような気がする。
一方がむしゃらは、他人に迷惑をかけない範囲内で、果たせねばならない事に精力を尽くす姿勢と言うならば、こちらがかえって望ましくて頼もしい。
がむしゃらでも、あくせくでもない生活態度もある。坦々として伸びやかに生きる姿勢だ。ある面では、無事安逸に、天下泰平に、殿様気分で生きる姿勢のようで、反感を齎す場合もあろうが、正直言って、そのように生きれるならば、何も望むことなど無い最高な生活態度であることを不定出来ないだろう。
坦々と生きる、悠々と生きる、といっても全く努力しないという話ではない。欲張らずに、おのれの分に応じて、焦らず、慌てず、落ち着いて、充実に生きる態度こそ望ましいのである。与えられた環境の中で、否応無く、がむしゃらに、あくせくと生きて来たのが我らの過去ではあるが、今や、環境の変化と向上された暮らしの質にふさわしく、もっと淡々とした、ゆとりのある人生を送るのも良いではなかろうか。
ある人が死んだ時、「生きるためにすごくあくせくしたものだが。。。」と言いつつ同情する。だが、淡々と生きて来た人が死亡した場合は清らかな人生だったと言う。安っぽい同情などはしない。死んだ後も他人から同情されるのは可哀想に思えてならない。
あくせくと努力し、七顚八起の苦労を重ねて高等考試に合格した人物をだれもが誉め称え、経験談を話してくれとせがむ。血の滲む努力は当然高く評価されるべきだ。だがそのような過程を踏まずに容易く高等考試に合格した人もあるのだ。頭が飛び抜けて良いわけでもなく、運が良かったわけでもない。ただ、淡々と、悠々と対処した姿勢が以外と良い結果をもたらすこともあると言うのだ。
ずっと以前のことだが、私が高等考試に合格した時、とある雑誌社より、どのようにしてかような栄光を受け止めたのか、その過程を書いて欲しいとの申し込みがあった。で、自分なりに事実を綴って送ったが採択出来なかった。容易く考試に合格したと威張るのは、一生懸命受験準備をしている人々に全然為にならないというのが理由である。夜明かしを続け、ろくに食事も取らず、失敗しても挫絶せず、死に物狂いで努力した結果だと言えば励ましになるようだ。
決してつつましく生きる人だけが殊勝で、楽に生きる人はそうでないと言い切れまい。何事かが己れに迫った時、慌てず、自信を持って毅然と立向かう事が、成功をもたらす場合もあるということを知らせるのが間違いと言えるだろうか。
昔も今も、我等の社会にあくせくが病み付きになってしまった風潮が気になって仕方がない。政治面では尚更だ。政権慾一つに向かい、社会に混乱を起こそうが、国民生活に害を齎そうが、なんら関係無しと、ただただあくせくする政治家が気掛かりなのだ。かような政治家が政権を掴むと如何なる政治が繰り広げるだろう。人徳も人情も無い、ただただ苦難に揉まれて来たのだ、今から勢力と権力を享受しなければ、と、闇雲に襲い掛かることは火を見るよりも明らかだ。
外交も同じである。がむしゃらに、又はあくせくとくい付くことできちんと目的に達しはしない。Give and Takeと言う教科書的な基本論理を持ち出さなくても、自分の申し分だけを突き通そうとすれば、却って損害を受けるということを我らは数えきれぬほど経験した。
とある交渉で合意に到達出来なかった場合、マスコミではこれをすぐ決裂と表現する。しかし、正確に述べると未合意なだけで決裂ではない。合意に達する一つの過程を踏んだといった悠然とした姿勢で次を備えば良い。こちらがあくせくとすれば相手もあくせくになる、その中で如何に順調なる合意が成されるだろうか。あくせくは決裂を齎すだけである。
どの社会でも自己調節機能を携えているのは何よりも幸いなことである。人間の力で調節しようと物凄く力を入れても不可能だった事柄が、独りでに解けて行くのを見て驚き呆れる時もある。
我が社会にはあくせく生きる人、がむしゃらに生きる人、淡々と生きる人、悠々と生きる人がいる。この人たちが適当に混ざっているほど、その社会は調節機能を全うに発揮して順調な発展を成すことが可能になる。
私は淡々と生きようと「悠々自摘」を座右銘として今日まで生きてきた。はたして私が我が社会発展のために自分の役割を成しとげたのかに付いてはまったく自信がない。それは私を知る人、私と共にした人々が判断する分であろう。`
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1992년에 출간한 고인의 수필집 [外交는 춤춘다] 중에서 한 꼭지 번역해 보았습니다.
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