外務部新參 (三)   -   번역 [飜譯]/韓日飜譯 [한일번역]

1956年2月にソウル大學校を卒業し, 4月11日付で外務部に入った. 月給6千ウォンの囑託でスタ-トだ. 國務院事務局(現在の總務處)を經て外務部に入ると事務官試補の辭令を受けれるが, すると相當月日がかかる由, 囑託としてでも早く始める方が得だとの周りの意見を受け入れ, いそいで外務部に入ったのである.

當時外務部には, 政務局, 通商局, 情報局の他に, 儀典局が新設されたばかりで, 後日外務部長官を歷任された, 駐美大使館勤務から戾ったばかりの朴東鎭氏が局長として采配を振っていた.
さる先輩の紹介狀を持參してドアをノックした私を彼は暖かく迎えてくれた. そして外交官生活を送るにあたり, 旅券業務を身に付けるのも必要だろうとの思いやりでか, 私を儀典局所屬の旅券課に配置した.

當時, パスポ-トを發給して貰う事は, 駱駝が針の穴を通るほど難かしかった. 米國などへの留學生や, 米國兵と國際結婚し渡米する洋婦人(皆, 彼女らをそう呼んだ)が申しこむ場合は, 必要な書類だけちゃんとそろえば比較的容易に發給されたが, 商用や其の他の個人的目的で旅行しようとする人達に對するパスポ-ト發給は一日に一件有るか無いかといった所だ. その上改めて景武臺(大統領の執務室)より許可を貰わねばならなかった.
私は新入りだけに留學生と洋婦人を相手に旅券を發給する,比較的簡單な仕事を受け持って外務部生活を始めたわけで,それは外交に取り組む本質的な分野と幾分かけ離れた仕事であったが, 將來に對する抱負が人一倍大きかった私は, 何の不滿や物足りなさも感じなかった.
<下略>

長官秘書
年が開け, 1957年2月に囑託を免れ, 外交官補の發令を受けた. やっと外交官らしき職名を貰い, 滿ち足りた氣持で出勤していたある日, 長官室からの呼び出しを受けた. 過ちなど犯した覺えは無いが何のことだろうと首をかしげながら秘書室を訪れると, 黃鎬乙秘書官(後に外務部次官補, 駐チュ-ニジア大使歷任)がやさしく迎え入れ, 私を秘書室勤務に薦擧したと傳えながら, 長官へ鄭重に禮を述べるようにと, 私を長官室へ導いた.

當時, 外務部は長官が 空席で, 曹正換次官が長官署理の發令を受け, 外交を主管していた. 曹長官は, 私をじっと見すえた後, 秘書室勤務は何よりも鄭重で誠實に行動するのが第一である旨, 肝に銘じるがよいと言い, 秘書室にもう一つの席を作らせた.

思いがけなく長官秘書に選ばれた私は, 黃秘書官に從い, 各局長室へあいさつ廻りをした. 朴東鎭局長は麾下のお氣に入り部下が長官の側近へ席を移すことに滿足されたし,他の局長も良かったと肩をたたいてくれたが, ただ一人, 金東祚政務局長(後に駐美大使,外務部長官歷任)は私を前に立たせたまま, 黃秘書官以外にも政務局出身の尹燦秘書(後に駐ペル-, 駐スペイン大使歷任)が居るのに, どうして秘書がまだ必要なのか, とぶっきらぼうに吐きだすのだった.

外務部に入ってから, 政務局長と儀典局長の仲がさほど良くないといったうわさを耳にしていたので, なるほどそうか, と直感した. いわば儀典局出の秘書が氣にくわず, ついそれが面に現われたわけだ. 言葉につまり顔を赤くしている私をすばやく部屋の外に連れ出した黃秘書官は,  もともと金局長の性格があんな風で, 他意があるのではない, となだめてくれたが, 私の傷付いた心は容易にほぐれなかった.

こうして始めた秘書室勤務であったが, 辛いことなど無く結構面白かった. 各國の外交使節と會う機會が多く, 部內の業務も大體身に付き, 出入り記者團から世間の成り行きなどをうかがうこともできた.
(中略)
やがて1958年1月1日付で曹長官署理は長官として正式に就任された. いざ次官の座が空くと, 誰がその座に付くかに關心集中, 一時金東祚政務局長と朴東鎭儀典局長が囑望されたが, 結局金局長が次官に任命された.

金次官が就任されるや, 秘書室が忙しくなった. 長.次官を共に世話せねばならなくなった爲である. 私は, 金次官の秘書になるのが氣にかかったが, 秘書室內の新參である爲, だまって仕えるしかなかった.

數日が過ぎたある日, 金次官は私を呼び入れ, 秘書とは身の廻りの世話役ぐらいで特に習う事もないから, 政務局へ赴き, 仕事らしき仕事を覺えるのが良かろうと言うのだった. 私は, お高い方の命令を逆うなどとんでもない事だと思いながらも, 皆に體よく追い出されたと思われそうで腹だたしかった. 次官が自分の秘書として考えている人物が別に在るとのうわさも流れていた.
ところが數日が過ぎても何ら音沙汰がない. 曹長官が, 金次官の話を聞いて, きちんとはたらいている人をなぜ變えようとするのか問い返えし, そのままにして置くようにとったとのことだった. それで私は秘書室勤務を續けることになった.

そうこうする中で外務部に大きな仕事が與えられた. ベトナムのゴディンディエム大統領が我が國を公式訪問することになったのである. 國家元首を迎えると言う事は竝大抵のことではない. 儀典手順が複雜でややこしく, 小さな失敗でもおかすと大變なことになり, 手拔かりなく行ったとしても, それは當然なことで, とりたてて褒められる事もないのが普通だった.
職務上, 朴儀典局長が實務責任者になり, 晝夜を問わず諸諸の準備に取り組んだ. それが, 日程に從い順調に進んでいたベトナム大統領訪韓二日目に, 豫想もしなかった事故が發生したのである.

昌德宮內の秘苑で催される李起鵬國會議長主催の午餐場に, 招待されてないはずの各國大使がつめかけたのである. 前もって坐席が決められている公式午餐なので, 意外の客を招き入れる狀況になっていない. 數名の大使にそっと聞いてみると誰もが招待狀を受けたと言う. 誰かがミスを犯したのだ.
やむなく朴局長は儀典官を動員し, 招待狀發送の際ミスが生じたことを鄭重に謝罪しつつ各國の大使を送り返えすように命じるしかなかった. 早めに到着してカクテルを飮んでいた獨逸の總領事は, けげんな顔をして歸り, 英國大使は, 長い外交經驗を積んでいる英國でも, このような失敗がまま起ると言いがら, べつに不平などこぼさず歸って行った. しかし米國大使を含む數名の大使は, 顔を眞赤にし, 怒氣を含んできびすを返すのだった. 午餐場の周邊はざわめき, ホストの李起鵬議長の心もおだやかでない樣子だった.

後で聞けば, 國會でのベトナム大統領演說に各國の大使を招請する事になっているのを, 儀典課の擔當官が間違って午餐の招待狀を送ったそうだ.二つの招請狀が共に李起鵬議長の名義であった爲に起った錯誤だったわけだ.

ベトナム大統領が訪韓を終え歸った後, その責任を負って儀典課の擔當官2名は免職になり, 朴局長と李 容儀典課長(後に外務次官, 駐ドイツ大使歷任)は解職され待機發令を受けた. あれほど一生懸命取り組んだにも拘らず, 部下の一瞬の過ちで, 思いもよらなかった悲運に落ちこんだ朴局長へ, どう慰めの言葉を申しあげたら良いのか....私は途方にくれた.