<外交官へ入門> -ソウル大學校- (一)   -   번역 [飜譯]/韓日飜譯 [한일번역]

外交官になろうと最初に考えたのは1948年8月15日, 大韓民國が樹立された直後である. つまり私が京東中學校6年(當時の中學校は6年制であった)の時だった.
學校の成績は優秀な方で, 大學への進學に大した難關は無いだろうと自信を持っており, どの大學のどんな學科を選擇すべきかだけを決めれば良いと考えていた. 一時, 文章力が優れているとの敎師らや校友の褒めにうぬぼれて, 隨筆家, 又は小說家になろうかとも考えたが, 文筆家は貧乏暮しをすると心配する母もさることながら, 獨立した國の國民として, 國政に參與する方がより生き甲斐がある事だと, 自分自身に期待をかけ, 外交官になろうと心を決めたのである.

當時は, まだ外交學科を置いている大學などほとんど無く, 最も入學が嚴しいと誰もが怖けている處がソウル大學校の文理科大學, 政治學科だった. それで大學進學をひかえた各學校の受驗者の中, 勉强のよく出來るいわば優等生らは, 將來政治家になるとか, 外交官, 又は政治學者になるといった明確な人生行路を定めもせず, ただ自らの實力を見せびらかすように政治學科を志望するのが一つの風潮であった. その結果として, 1949年の初夏に實施されたソウル大學校入學試驗で, 政治學科は, 5對1という驚くべき競爭率を見せたのである.

入學受驗をすべて終えた後の私の心境は, むしろ淡淡としたものだった. あの程度だったら, まあ合格するだろうといった自信感があった. 心配そうに私を窺う母に安心しても良いと告げたが, やっぱり母は氣がかりのようだった.
合格者の發表がある日, 學校の運動場に合格者名單が揭げられる時刻に私は映畵を見ていた. 確かめなくとも合格間違い無し, という自信感を誇示するつもりでもあったが, 萬が一, 失敗した場合, 大勢の前で味わねばならぬ氣まずさから逃れようとの心算が全然無かったとは言えない.
萬が一はめったに起らないと見え, 私は合格の喜びを抱くことができた. しかし私自身は, 周りの祝福と羨望に取り圍まれながらもさほど大層な事を成しとげたといった感が沸かなかった.

入學式はその年の9月初に行われ, 私は政治學槪論, 經濟原論, 英語, 佛語等, 基礎敎養科目の他に外交論や外交史等, 外交官になるために役立つと思われる學科をいくつか選んだ. しかし中學の頃のように勉强に打ちこんだわけではない. 自然に大學の雰圍氣に染まり, 品良く言うと豊かな生活, 率直に述べれば安逸な日日を送っていたのだ.
年が明け, やがて1950年6月に私は2年に上った. 9個月目である. 當時は學年の始まりを9月より3月に移す過程中で, 一度に換えず一旦6月に移した後3月に移す過渡期であった.

2學年の登錄を濟ませた後, 數回の講義を受けたばかりの頃6.25事變が起った. 相當な金額の登錄金をやっと作り, それも期日に間に合わず, 無理を賴んで漸く登錄を濟ませたものだから實にいまいましかった.
6月26日, 登校してみると學校は講義を受ける雰圍氣ではなく, 改めて連絡するまで家にて待機せよとの公告の前に大勢の學生達がたむろしていた.
ソウルは, 戰爭が勃發して4日目の28日北韓軍に占領されたので, 私は後退する時期を逃がしてしまった. 數日後恐しげもなく登校してみると, 北韓軍司令部が設置されていた.
9.28ソウル收復の後, ソウル大學校はUN司令部にかわり, 講義を開始されずにいたのが, 1951年1月4日, 再びソウルは北韓軍と中共軍の手に落ちてしまったのである. 共産治下の苦しい生活を繰り返すのはまっぴらだと思った私は12月末にソウルを離れ南下し, やがて軍隊へ入った.