[隨筆] 外交は踊る : 崔浩中 [29] - 번역 [飜譯]/韓日飜譯 [한일번역]
全方位外交の完城
わが外交の主軸は親西方外交だった。尚その基軸は親美外交だ。美国が主導するUN軍の助力で6・25動乱から国を守ることが出来たし、また美国の援助が無かったならば、その後国を支えて行けない立場だったので仕方無いことでもあった。そのうちだんだん6・25慘禍から復旧し、国力が整えられるのに従って伝統友邦だけでなく第三世界と呼ばれるいわば非同盟圈とも関係を結ぶ必要性が台頭された。
民主陣營でも共産陣營でもない第三世界は国際政治でさほど大きい影響力を携えていないものの、国の数では絶対優勢を占めていて、北朝鮮がすばやく彼らと手を結んで美国と我らを一つに束ねて攻勢をする状況下で、我らは急ぎ対応措置を取らねばならない切実な立場に置かれてしまったのだ。
1975年にペルーのリマで開かれた非同盟会議で、非同盟加入を試圖したが、北朝鮮は加入が承認され、わが国は加入が否決される惨憺たる状況が開かれた。美軍がわが国に駐屯しており、美軍と軍事同盟を結んでいるからには、非同盟隊列に入ろうとの著想からが不相応なことだったし、それが我らに外交惨敗をもたらせたのは当然の帰結でもある。
われらは非同盟権を主導する国家共と個別的に接近する方向へ戦略を変えねばならなかった。アジアでは印度とインドネシアが強い発言権を持っていて、彼らが最初は等距離外交を掲げて南北韓どの方にも傾かない中立国の立場を見せたが、我らの粘り強い外交努力と経済的利得に引かれて段々我らに近付き始めた。
中南美ではキューバを外して我らが北朝鮮を制圧していた。美国の影響圈にて大きい利を得られる考えだろう。中東とアフリカではかえって北朝鮮が我らより先立った。植民地から脱して独立はしたものの、いまだに貧しい彼らの国家が左傾性向を見せつつ、大筋で北朝鮮と似通った路線を踏んでいたからだ。その中でも目立って親北的であった国として、中東ではイラク、アフリカではアルゼリーを挙げられよう。
イラクは我らとの接觸自体を拒否していた. 親北一辺倒だった。それが、イラン・イラク戦争の際北朝鮮がイランへ武器を供給している事実が知られてからイランの北朝鮮との関係は急速に冷却したし、反射的に我らがイラクへ接近出来る隙間が出来始めた。
アルゼリーは国際舞台で北朝鮮を支持しつつ北朝鮮を代弁する先捧將のような存在であった。金日成が直接訪問した数少ない国の中にアルゼリーが入っているのを見ても判るように彼らの間は並外れて近かった。
1967年にアルゼリーの首都で開かれた77グループ会議に参席しようと勇敢にもこの国を訪問した崔圭夏外務部長官は、予見した通りたいへんな恥を恥をかいてしまった。我が一行を野中の家屋にまるで監禁するように閉じ込めて置き、警護するとの口実をもとに警備兵等が銃先を内側へ向けている程だった。気が利かないのか、此処へは何しに来たのか、といった具合いだ。会議参席どころか、家の外へも出られないで居た後、2日めに崔長官一行は会議を主管した国際機構と数個の親西方国家の介入で、行ってはいけない所を訪ねた苦い味をじっくり味わった後に、やっとジュネーブへと抜け出すことが出来た。
しかしながらアルゼリーの態度も大きく変っていた。その後二十年という長い歳月が流れる間に世界が大きく変っていることをアルゼリーだって知らないわけがない。
私は外務部長官に就任して、北方外交も重要だが非同盟外交も決して軽く見てはならない点を強調した。そしてその手本にイラクとアルゼリーとの修交を推進することに力點を置いた。イラクは北朝鮮と関係が遠くなりつつ1981年4月にわが国が首都バグダッドに總領事館を置くことを受け入れたし、彼らもソウルに總領事館を建てたのだ。しかしその後十年近くも両国の関係は領事關係に留まっていた。一つ進展があったとすれば、それは中東地域全般に掛る建設ブームに乗って、わが国の建設業体共がイラクへ進出し始めた事実である。
このような配定の中で我らが粘り強く推進した交渉が奏效し、ついにイラクがわが国と外交関係を結ぶ事に同意するや、私は欧州訪問を終えて帰国する途中にイラクを訪ねた。1989年7月9日、私とイラク外相は、正式に両国間の領事関係を外交関係に昇格させるのに合意し、これを内外へ公表した。その日の夕方、イラク外相はわが一行を手厚くもてなしてくれた。
次の日私はサダム・フセインイラク大統領を礼訪した。警戒が森嚴だった。大統領宮へ入る道には太い鉄釘束が高く聳えて道を塞いでおり、我らが身元を明かした後でやっとその束が土の中へ沈んだ。宮内にも所々に銃を携えた警備兵が配置されていた。誰もが殺伐とした表情を浮かべていた。
サダム・フセイン大統領も明るい表情ではなかった。良く言えば謹嚴な表情だ。修交した事を嬉しく思うとか、国家元首へ挨拶を伝えてくれとの儀礼的な挨拶言葉も無かった。ただ回敎の敎理に従う一種の說敎に始終する感じである。私は私なりに数言しゃべり、長い説教を傾聽するしかなかったがそれはどうでもかまわない事だった。イラクと国交を結び、ひょっとsると私が彼と逢った我国唯一の外務部長官になるかも知れない立場にある事実が重要だったのだ。
その時は知らなかったが、後にサダム・フセイン大統領は、世間で知らぬ人が居ない程の悲慘な末路に逢ったのだ。彼はクウェートを侵攻して美国より無惨にやられながらやっと生き残ったが、父子大統領の記録をたてたブッシュ大統領が父の果たせなかった仕事を成したのだ。国際的呼應は好意的でなかったものの、国内の絶対的支持を背にしたブッシュ大統領の決断で、美軍と連合軍がイラクを侵攻し、彼を追い出したのだ。
アルジェリアはイラクより交渉が少々ややこしかった。直接交渉代表を送り国交を結ぶのが上策と判断した私は、外交經驗が豊富でフランス語も堪能な盧永燦大使と韓碩鎭大使をその国へ送り修交の交涉を推進させたが、結果は、アルジェリア側より示したのが領事關係から始めようとの提議だった。盧大使は少し期待には及ばなかったけれども、なんにも成せなかったよりはましだと思ったのかこれを直ちに本部へ知らせた。
この報告に接した私は一言で駄目だ伝えた。外交関係が駄目なら止して帰って来るようにとの訓令を出した。エジプトと領事關係を結んで三十年になる今日に至るまで、未だに外交關係へ格上出来ずにいる悪い先例があるが、今さらその前轍を再び踏むと言うのかといった不快感が私をむっとさせたのだ。
この訓令を受けた盧大使と韓大使は大いに面食らった。出来れば領事關係でも結んだからにはご苦労と言われそうと思ったが、その期待が霧散になりかえって大きな荷物を担ぐようになったからだ。到底このままでは帰れないとの悲壮な覺悟で再び粘り強い交渉を繰り広げたあげく、彼らはついにアルジェリア側より外交関係を結ぶとの同意を受ける事に成功した。
1990年1月15日、両国間の外交関係は正式に発效された。新年の出発をすばらしく裝飾したのだ。尚これはわが国は勿論の事、私にも北方外交に決して劣らない嬉しさと甲斐を抱かせてくれる一大快擧だった。我々はよく東西南北と言う。四方を見回して見よと言う。わが国が地球の端に座を成してない限り、我らは東西南北に包まれているのだ。従って外交もこの四方を相手にして展開せざるを得ない。
四方に向かう外交が始まった。親西方外交が即ちそれである。ただ西側にのみ向かって行う外交との意味では無く、民主陣營を相手にする外交を話すのだ。これには日本に対する外交も含まれる。その次に非同盟外交が追加する。いわば南方外交と言えよう。南北と言えば我らはすぐ二つに分かれた韓半島を指すと考えがちだが、国際的には北は先進國では南後進國, 少し聞き良く表現すれば開発途上国を指稱することだ。非同盟圈はまだ豊かに暮せない開発途上国で形成されているだけに、彼らを相手にする外交を南方外交と言っていけないことはない。
我らに東方外交は無い。西ドイツは東方に位置した東ドイツ、その向こうの東歐共産圈に対する外交を東方外交と呼んだが、わが国の東側にある日本に対する外交は西方外交に含まれる。太平洋を越えた遠くの東側に美国があるが、地球は丸いので西側へ回ってみるとヨーロッパを通って美国にも着くことになるので、あえて東にあると言わなくても良い。北方だけが残るが、北方外交は私が長官にいる間ふくよかな実が付き始めた。北方に座を占めている国に対する外交ではなく、共産圈に対する外交を全部合わせて北方外交と呼んだのだ。
こうしてわが国は東西南北総網羅の外交を展開するように至った。いわばわが外交舞台が四方へ隈無く広がった全方位へと拡大したのだ。私ははばかる事無くこれを北方外交と呼んだ。金東祚長官が、我らが眠っている間世界の半分は働いているだけに、24時間外交体制を整うべきだと強調したことがある。これを時間の側面で見た外交的現実と言えば、空間という側面で見る全方位外交の時代がついに到來したわけだ。
李東元長官は私を演士として招請したさる集まりで、自分を含む歴代外務長官は半分の外交だけをして来たが、崔長官が始めて正しくて完全な外交を展開していると私を誉め称えてくれた。私はその言葉をじっと聞いているわけにもいかないので、ただいま北方外交の成功で全方位外交を完成することが出来たのは私のみの功績ではない、今まで堅固な基盤を磨いて来た先任長官一同の努力の結晶であると述べた。そう言いつつも心の中では時運に恵まれてこのような良い時期に長官の座へ着いた自分が嬉しかった。
空間は広さと共に高さを要所とする。立体性を含んでいるのだ。全方位外交も平面的な方向感覺のみでは不足で、立体性を導入することにより実効を成す事が出来ると私は考えた。いわば敎科書的正統外交にのみ依存せず、多様で多角的活動で上乘效果をあげる事が上策との着眼だった。
事実そのような努力はすでに出来上がっていたし、実績も相当成していたのだ。リビアの場合は国交が無かったけれどもわが建設業体が進出して良い成果を上げたのが貴重な元肥になり、修交を早めることが出来た。スーダンの場合もわが企業がタイヤ生産事業に進出し、その国の高位層の信任を受けることで修交を可能にしたのだ。
このような経済的分野での進出ばかりで無くスポーツも効果的外交手段の一つだった。美国がピンポン外交で中国と親しくなった事が良い例であるけれども、我々は跆拳道敎官派遣が少なからず効果を挙げたのだ。わが医療陣の派遣もそれに劣らない。遠くアフリカ奧地にまで赴き苦しみに耐えつつ最善を尽くした彼らの獻身的奉仕は、我が国を眺める数多くの国の視覺を正すことに大きく貢獻したのだ。文化交流も一役を果たした。わが国固有の伝統文化は我らの外交資産として活用した。特に無窮花を描く扇舞や、みんなを浮き立たせる農樂隊公演は何処へ行っても滿場の拍手を受けた。
私はこのようなことを一つにして全方位立体外交と名付けた。我らみんながあれ程誇る88オリンピックの成功はわが外交に限りない程すごい力を与えてくれた。かような力を受けたからにはそれを最大限に、そして立体的に活用せねばならぬ。それが即ち外交の妙であるのだ。オリンピックが北方外交にプラスして大きな成果を成したと言えば、それに留まらず、北方外交の成功を非同盟外交にも有效適切に援用するのが望ましい。それが即ち外交の術と言えよう。
尚、非同盟外交に成功を成したといえば、なおわが商品の輸出を拡大して経済進出促進へと結ぶ努力もするべきである。いわば外交の能を発揮せねばならぬとのことだ。私はこれを全部含めて全方位立体外交と呼ぶ事が出来ると解釈した。言うまでもなく伝統外交が外交の中心になるべきだが、時代の流れにつられて今や国民外交、それに国家的総力外交を開くべき時を迎えているとの現実を直視し、外務部だけでなく、政府の各機關, そして民間各分野を動員する総体的で有機的な外交活動を展開することが切実だと私は信じた。
この全方位立體外交という言葉はなるほどとの言論評を受けもしたが、批判的な視角も無くはなかった。特に国会一角ではどうすると言うのか良く解らないと皮肉を言いつつ、何でもないことを以て関心を引いて見ようとの下心ではないかと皮肉ってもいた。私はPR時代を迎えて国民的関心を引きつつ自体弘報をするのは悪くないとの考えと、立体性を生かした外交が即ち先進外交との自身感で、たまには冷たくも見える彼らの眼差しを乗りきることが出来た。
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