[隨筆] 外交は踊る : 崔浩中 (13) - 번역 [飜譯]/韓日飜譯 [한일번역]
G. 企画管理室長
再び踏み入れたソウルの土地は堅く凍り付き、風が痛いほど冷たかったが, それでも気分は爽快だった。新任朴長官のお呼びで、理事官から外務官へ上級して本部要職へと, お国入りしたからである。
企画管理室長として私が最初にすべき仕事は、朴正熙大統領の外務部年頭巡視に備えた長官報告資料の整備作業である。しかしその仕事は難しくなかった。朴長官自ら骨組みを整えておいたので、私はそこに肉付けし調味料を振り掛ければ良かったのだ。
年頭巡視は成功的だった。朴長官は戸惑いや緊張感など無しに堂々とした姿勢で報告を済ませたし、朴大統領は外交の重要性が日に日に重くなる今日、新長官を中心にしてもっと奮発するようにと我等を激励した。私は企画管理室長としての初出発がそれなりに難なく行なわれたのを幸いに思った。
次に私がせねばならぬ仕事は人事問題だった。昇進と補職、この二つは公務員体系を維持する根幹であるだけに公平無私に扱わねばならぬが、言葉では容易いけれども實踐はそうでない。飯が食べたい人は多いけれども器が足らない如く、昇進対象者は多いが昇進の座は少ないのが問題だった。似通った対象者の中で数人だけを選ぶと、選ばれなかった者等は不平を述べるのが当然と言えよう。
補職も同じである。外交網の擴張によって住み良い処より住み辛い処に大使館が多くなったわけで、誰もが住み辛い処へ行くのを憚った。一時は女子大生の間で連れ合いの最高と狙われていた外交官の人気が大分落ちてしまったのは、いわばこのような理由からだと思われる。
実は私も結婚後日本へ発令を受ける前にアフリカのウガンダ(Uganda)へ行くところだった。あの時代は発令を受ける前に一旦当事者の意見を質していたので、その時、生後百日足らずの赤子を連れて医療施設の良くない所へ行くのは憚れると懇請し、やっと免れたことがある。しかし今は世界が完全に変った。一々個人の事情を聞き入れていれば誰も辛いところへは送れないのだ。
私は朴長官の指示を受け総務課長と二人で冷静に人事発令案を組んだ。昇進に入れなかった人はその代り補職面で良い公館へ配置しようと気を配った。しかし容易いことではない。幸い人事移動があるとの情報が事前に漏れなかったためか請託や外部圧力が無かったのは幸いだった。
朴長官は一晩で作られた私の作品をほとんど修正無しで受け入れて下さった。無難な人事措置であるとの後評を受けたことも有り難く思う。
もう一つ重要な仕事は予算配定と新年度の予算編成だ。国家全体予算の中でたったの1%を占める外務部予算であったが、これを本部各々の室、局、大小様々の在外公館へ適当に配らねばならぬ仕事は容易いことではなかったのだ。必ずやらねばならない事業だが予算が足らないとか、初めから予算が無くて出来ない事業も少なくなかった。このような仕事を選び抜き、新年度の予算要求書に入れようとするが、経済企画院では、新規事業は認めないとか、新年度予算は現年度の一定比率以上を增額要求出来ないと言いつつ、高姿勢で一貫した。
様々な難題を通り越してやっと予算要求書を経済企画院へ提出して幾ばくも過ぎない頃で、在任5個月目に私は室長の座を免れた。突然座が空いた経済次官補職を受け持つことになったわけだ。
H. 経済次官補
経済次官補の座へ移りながら外務官五ヶ月目に私は特二級へ昇進した。その当時の職級体系は、事務官、書記官、副理事官、理事官、外務官、特二級、特一級からなっており、特二級にならなければ経済次官補に補職出来なかったのだ。そう言うわけで私は五ヶ月とという短い期間で二階級飛び上がる珍記録を立てることになった。
経済次官補としての最も重要な業務は、毎月朴大統領主宰下で開催される貿易振興拡大会議で商工部と共に外務部報告を直接行なうことだった。貧しい家に祭事が引っ切り無しに廻ってくる如く、適当な報告物など準備もできぬ内に月例會は驚くほど早く訪れるので、私は数ヵ月後の事を見通しつつ報告資料を準備せねばならなかった。
報告内容については、商工部が国内問題を扱い、外務部は国際市場の流れなどを報告するのが慣例だったが、そう確然と区分するのが難しかった。
一度は外務部で自動車輸出問題を報告し始めるや、商工部が制動をかけた。特定品目に関する報告は商工部がやるべきだとのことだった。私は、自動車生産に関する国内的側面ではなく、自動車の国際的需要や、わが国の自動車に対する海外市場の評価に関する事は、外務部が報告しても差し支えないと立向かった。
私は、当時国際市場で関心を引き始めたポニー乘用車に焦点を絞って報告する計画を立て、在外公館へ指示して必要な資料を集めたのだ。ポニー車は先進国よりは中東、アフリカ、中南米等後進国で人気を高めているので、そちらの評価と共に、実際ポニー乘用車が荷役されている場面やポニー乘用車が走っている場面などを含めたスライドを送ってくれるように指図した。
このようにして纏めた報告はそれなりに興味あるものになった。アラブ人の家族がポニー車を覗きながら喜んでいる場面もあれば、アフリカ黒人が運転するポニー車が密林の中を走る場面もあった。このスライドを見せつつ私はポニー車が概して好評を受けてはいるが、冷房を必要とする暑い地域では馬力が足りないとか、湿度が高い所では車体が錆びる場合があるなどの問題点も提起していると報告した。
朴大統領は外務部報告によって自動車輸出展望が明るいと感じれる、欠点を補完し長所を生かして、わが国が世界有數の自動車輸出国へと成長するように努力せよと指図した。言ってみればこの時が自動車輸出の足踏み段階であったが、すでにわが国が世界で指折りの自動車輸出国になったのは実に感慨無量なことである。
経済次官補が必ずやらねばならない仕事はこのような報告以外に、経済分野の業務を總括しつつ長官を補座して、経済分野でなくとも長官が指図する特定重要業務を処理する仕事など多彩であった。そんなわけで毎日がさほど無聊ではなかった。朴長官はその合間に可能な限り多くの国を見回りながら見聞を広げておくのが良いと言いつつ私を度々海外へ出張させた。
おかげで私は南太平洋のFiji, Papua New Guinea, カリブ海域のGrenada, Barbados, Jamaika, アフリカのCameroun, Ethiopia, Kenya, 中東地域のNorth Yemen, Oman, Quatar等、その時代は容易く行かれない多くの国を見回ることが出来た。
I. 政務次官補
私は経済次官補として二年間在職した後、政務次官補の座に移った。朴長官のおかげでソウル在任二年半の間で企画管理室長、経済次官補、政務次官補といった本部三役を受け持つ貴重な経歴を積むことが出来たわけだ。これを妬んださる部内人士が「一人で全部食えよ」とあざ笑うように言ったことを耳にしたが、ともかくこう三つの座をあまねく受け持ったのはその時まで私一人のみで、ずっと今まで無かったわけだが、多分この先も難しかろうと思われる。
政務次官補になってから国会対策に多く関与することになったのは、私には新たな経験だった。主に外務委員会との緊密な協調を行なう。国会が開かれば、本会議よりも外務委員会で政策質疑が鋭く、刺々しい質問があふれ出るのが常だった。
歴代外務長官の国会答辯は各々特徴があった。崔圭夏長官は質問に隈無く答えるのだが、終りまで聞いても何を聞いたのかあやふやになるし、どこか足りない感じがするとの評だった。金容植長官も達辯で、核心を避ける要領が優れたことで知られていた。奥に何の意味を含んで話すのか容易く汲み取れぬ事も特徴だった。
金東祚長官は国会出席を嫌がった。定期国会が開かれる毎年の九月は、UN総会が開かれる時期でもあるわけで、金長官はこれを言訳にニューヨークへ赴き長期滞留する。そんな時は次官が代理出席して酷い目にあったりした。
これに対し朴東鎭長官は堂々と大胆に答弁する方だった。言い回すとか、核心を避けて答弁することがなかった。話したいことを直說的に述べる。それで野党議員だけでなく与党議員とも言い争う場合がたまにはあって、側で聴きながらはらはらしたものだ。
かような様々な答弁態度が私にはたいへん参考になった。その時は私が後日長官に成ることなど夢にも思わなかったけれども、実際見たり聴いたりした事が我知らず大いに役立ったことは確かである。
経済次官の時もそうだったが、朴長官は海外出張時に度々私を帯同した。公館長会議を主宰するために出掛けても、会議が開かれる國を公式訪問するわけだから、そのために長官が他の行事へ参席する場合は私が長官の代りに公館長会議を主宰せねばならなかった。
公館長はほとんどが私の先輩だったので、彼等がずらりと並んでいる会議を主宰するというのが私には堅苦しく感じられた。それでも2、3度繰り返すうちに要領を得て、あとは何とも感じなかった。かえって面白く浮かれもしたものだ。
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