[隨筆] 外交は踊る : 崔浩中 (12) - 번역 [飜譯]/韓日飜譯 [한일번역]
E. 通商局長
国際経済局長在任八ヶ月目に私はこれといった業績も揚げれず通商局長の座へ移された。通商局の比重が新設された国際経済局より大きかったから敢えて云うならば榮轉と云えぬ事もない。
通商局長になり最初に大事な仕事を行なったのは韓・日貿易歓談である。我が対日貿易が酷い逆調を見せている状況中で、たとえ局長級が首席代表になる年例会議ではあったけれども、首席代表としての責任が重いことを痛感した。
開會辭で私は、毎年開かれるこの会議が対話のみで終わる実の無い集まりにならず、実際行動へ繋げる会談に実らせるためには互いに努力せねばならぬと強調した。すでに10余回もこの会談を行なったが、実利が一つも無かったのを思い浮べさせもした。
予想した通り日本側の反応は微温的だった。形式的に大まかな会議を済ませ、ソウル観光でもしようといった態度に映った。私は彼等に刺激を与え,会議の能率を高めるためにも日本語でぴしっと一言しなければならなぬと考えた。前例を破る行為だ。
私の日本語は以外と流暢だった。日本語で日本側を捩じ込むのは実に痛快なことだった。若く見える私が以外にも彼等の言葉が上手いと舌を巻きつつ,私の話を傾聽するように見えた。しかしながら結果は別に変らなかった。日本代表を窮地に押し込み、一度胸がすっとするまで鋭く云い放った快感を味わったことで自慰するしかなかった。そして、両国間の貿易不均衡は容易くは解けない難題であることをもう一度自覚したに過ぎない。
1973年がほぼ暮れ行く頃、金容植長官が統一院へ座を移し、金東祚駐美大使が外務長官になった。それが、新しい長官が帰国もする前に大変な事件が起ったのだ。ついぞ予想もしなかったアラブ産油国に依るオイル武器化措置なのだ。石油価額を途方もなく上げると思ったら、ついにその供給量を制限するとのことだった。一滴の油も出ないわが国には靑天霹靂と同じ事である。
靑瓦臺で外交担当特別輔佐官として再任中の崔圭夏前外務長官が、石油供給確保の交渉を行なう重責を抱え、大統領特使としてすぐサウジアラビアへ派遣された。わが国が石油所要量の70パーセントを依存して来た國なのだ。
現地に到着した崔特使は国王面談を一日前に控えて、緊急電報で、サウジアラビアの機嫌を取るためには、パレスチナ人の問題解決に当ってわが国は、イスラエル側ではなくアラブ側の立場を支持するとの明瞭な立場を公開的に闡明することが必要であると建議してきた。そうすることで国王との面談時、彼を説得する力になるとのことだった。
丁度その日、米国より帰国した新任金東祚長官が泊まっている朝鮮ホテルで、緊急対策会議が開かれた。会議は長引かなかった。わが国が生きるためにはオイルが無くてはならず、オイルを手に入れるためにアラブ側の立場を支持するしか、別の選択肢は無かったのである。
アラブ支持声明を出すのは容易いことだが、これに従う余波を慎重に確かめねばならない。米国側へ我等の不可避な立場を事前に説明することは尹錫憲次官が受け持ち, イスラエルへ報せるのは私に任せられた。この仕事は中東地域を担当する政務側で主管せず、通商局担当だったのだ。アラブの立場支持表明が政治的次元よりは、経済的必要に依って行なわれた事を内外に知らせるためだ。
私がこの事で電話を掛けた時、イスラエル大使は日本へ行かねばならぬ業務があり空港へ向おうとした所だった。私が、オイルを得るためにはアラブ支持声明を出せねばならなかった事由を簡略に説明すると、イスラエル大使は驚きすぎたのか暫く返事がなかったが、その方針がすでに確定されたことかと訊ねる。そうだとの私の答えに、力無く受話器を下ろす音が聞こえた。
崔特使のサウジアラビア国王との会談は大成功だった。共産党とイスラエルを憎む国王の気分にしっくり当てはまる崔特使の巧みな弁舌が効を成したわけだ。崔特使は、国王からわが国が必要とする石油を以前水準通り続けて供給するとの確實な言約を受けたとの事を報告してきた。
凱旋将軍のように帰国した崔特使は, 金浦空港から靑瓦台へ直行した。夜遅くまで大統領は夕食を取らずに待っていた。崔特使が入るや、小さな体躯の朴大統領は、巨具の崔特使の肩を叩きつつ、一等功臣だと何度も繰り返したと云われたそうだ。その夜、遅くまで朴大統領の強引な勧めを断れず相当の酒を飲んでしまった崔特使は、靑瓦台を出て乗用車に上がりながら酒を吐いたとのことだった。
f. 駐ジュネーブ公使
本部局長を務めた後すぐ外務次官になった例があると思えば、在外公館へ一等書記官として出向くこともある等、人事発令は一定していなかったけれども、私が局長を終える頃には、対外職名ではあるが、ストレートに大使で出向く例が出て局長等の士氣が上がっていた。しかし私は焦ること無く、小さな國の大使へ出向くよりは大きい公館の次官に出向き、経験を積らせるのがもっと良いのではないかと考えていた。
私は駐英大使館へ行きたかった。未だにヨーロッパで勤務したことが無いし、ヨーロッパへ行く場合は長い外交伝統を誇る英国が最も気に入っていた。しかし、そのような意思を自ら現わすのは何故か気が引け、金東祚長官の寵愛を受けている李楠基企劃管理室長に頼んでみた。すると、彼のおかげだろうが、英国へ行かせるとの長官の内諾を容易く受けたのだった。
ヨーロッパへ行くことになったことで浮き浮きしつつ数日が過ぎたある日、金長官が呼ぶとのことで長官室へ訪れた。盧信榮次官はすでに来ていた。座に就くと金長官は、私の望みを受け入れて私を英国へ送ろうとしたが、盧次官の考えが少し違うようだから聞いてみろと云うのだった。
盧次官は、英国が良いのは確かだが、私を英国へ行かせると、そこへ行って二年足らずの人を他所へ移せねばならず、そうなると、長官が自分の側近のために情實人事を行なったと非難を受ける恐れが有る故、駐ジュネーブ代表部へ行くのはどうかと云う。
私は暫しためらった後勇気を出して、盧次官の話に一理あると思いますが、可能ならロンドンへ行きたいです、と答えた。すると、金長官が口を開く前に盧次官が前に出て、「そんなに自分の意地だけを張らずに、金長官や外務部の立場や対面も考えねばならないではないか」と云うのはないか。私はムカッとした。長官は私を英国へ送ろうとするのを次官が横で遮るなんて! 穏やかな心にならず私はつっけんどんな口ぶりで、それだったらジュネーブへ行きましょう、と言ってしまった。この言葉に驚いたのは金長官だった。意外に聞こえたらしい。ほんとにジュネーブへ行くか, と二度も繰り返して訊ねる。私は、はい、と答えてすっくとた立ち上がり部屋から出てきてしまった。
こうして勤務することになった註ジュネーブ公使の座は、私にとって良い経験になったばかりでなく、いろいろ面白いこともあった。そこでは、連日各種の国際会議が開かれているが、ただ参席するだけではなく、積極的に参加するためにはその準備ですごく忙しく,また難しいことであった。
そんな中で私は些細なことではあるが、国際会議の議長を務めた貴重な経験もすることが出来た。わが国をはじめ16ヵ国の参加で、開発途上国の貿易增進問題を協議する集まりだったが、六ヶ月毎に受け持つ議長の座が私に廻って来たわけだ。たとえ小さな会議であったけれども、その中には、亜細亜、アフリカ、それに中南米からなる3地域があり,その間の利害関係を調停する役割を遂行する仕事はとても貴重な経験であったのだ。
ヨーロッパ勤務は初めてなので公務以外にヨーロッパ各国を訪れる楽しさも凄かった。最も記憶に残るのは、復活節休暇で南仏地方を自動車で一回りしたことだ。マルセイユから地中海沿岸に沿ってモナコまで行くドライブコースは正に絶境だった。一方は青い海、もう一方は鬱蒼な森の中に高給別荘が散在している、それこそ地上楽園だ。
私はその中でもCanneがいちばん素敵に感じられた。権威ある映画祭でわが国でも知られているその都市は、きれいな海岸が逸品だった。その海岸線に沿ってずっと立ち並ぶ特急ホテルが威容を正していた。しかし我等はそのホテルに泊まることが出来なかった。すばらしく着飾った老夫婦がホテルから出て、腕を組み合い海岸道路を散歩する姿を羨ましい眼差しで眺めるだけだった。
その夜、私達はホテルに入れなかった。復活節休暇でヨーロッパは勿論のこと、遠く米国からも押し掛けた観光客のために、予約していない客は空きホテルを探せないとのことを知らなかったのだ。小さなホテルまで満員との標識をかかげ、扉を閉めているしまつだ。
しかたなく夜更けに郊外へ出て、家内と息子二人が眠っている車をさびしい公園の隅に停め、車の中でまどろむことにした。しかしちっとも眠気が訪れない。西洋では13とという数字を不吉に思のだが、よりによってその日が結婚13年になる日、私達は意味ある日を路上で過すはめになったわけだ。
次の日、私達は日が昇や否や再び市内へ入ろうと車のエンジンをかけた。すると前に停っている車も、後ろの車も一斉にエンジンをかけるのだ。私達のみ路辺で夜明かしをした訳ではないことを知って少し慰めになるのを感じた。そこで私はこの旅を、「南仏の浪漫」と名付けをした。
ヨーロッパ旅行はこれで終りはしなかった。ブリュッセルで開かれた国際会議の参加に続き、家族と共に仏蘭西,英国,オランダ、西独等地を旅行した後、Hamburgで借りた車を運転して、Rhine江に沿ってHeiderbergを通りGenevaへ帰ってきた旅行とか、Christmas Holidayを利用してイタリアへ渡り、Venice, Pisa, Roma, Napoli, Sorento, Capriなどを廻った旅行などは、日に日に大きくなる息子二人に深い印象を与えたのは明らかだと思われる。
このように有益で愉快な私達のジュネーブ生活は長く続かなかった。10ヶ月目にソウルへ戻ることになったのだ。金東祚長官に続いて外務部を受け持つことになった朴東鎭長官が私を企画管理室長に呼び入れたのだ。私は好きになり始めたジュネーブを離れるのが惜しかったけれども、私を信任して重責を任せた朴長官に対する有り難さがずっと大きいのを感じつつジュネーブを離れた。1976年1月であった。
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