[隨筆] 外交は踊る : 崔浩中 [35] - 번역 [飜譯]/韓日飜譯 [한일번역]
H. 芸術とも踊る
交響楽と協奏曲
音楽を好む人で古典音楽をより好む人とポピュラー音楽をより好む人とを大別出来るわけだが、私はこちらでも無くあちらでも無い。言い換えれば全部好きだとの事で、それは音楽に滅入る程では無いという話にもなる。
知識人として古典音楽を知らないとか演奏会に行ったことがないと言えば面子に関わるような気がして私も機会が訪れればたまに演奏会にも行き、レコードを求めたりして古典音楽を親しもうと努力して来た。そうする中で外交官の道を選んだおかげで一般人が容易く持てられない貴重な機会を何度も持つことが出来た。
まず私が誇れるのは早くもカーネギホールに行ったことである。駐美大使館で末端外交官として勤務していた1950年代の末、私はニューヨークに住んでいる一人の後輩が招待してくれたおかげで、メトロポリタン・オペラハウスで「オペラカルメン(Carmen)」を観た後、ついでにカーネギホールへも行ってみたのである。
フランスの若いピアニストPhilippe・Entremontが、ニューヨーク・フィルハーモニ・オーケストラとの協演で、Rachmaninoff作曲のピアノ協奏曲2番を演奏したが、名曲とは何処となく異なっていたのでその旋律は野暮な私の耳にもすごくきれいに聞こえた。なんかにゃむにゃしつつ天井を仰いたり頭を低く垂れたりしながらピアノを演奏する彼の、神に憑かれたような体の動きがすごく印象的でもあった。それで演奏が終わった後、彼を訪れて演奏会紹介のパンフレットにサインまで貰ったものだ。
私はカーネギホールを出て、近くの店でその曲が入っているレコード一枚を求めた。ルビンスタイン(Rubinstein)が演奏したものだ。この因縁で私はあふれる程数多くのピアノ協奏曲の中でRachmaninoffのピアノ協奏曲二番を特に好むようになった。
もう一つ思い出すのは、私がサウジアラビアで勤務している頃休暇でオーストリア・ウイ─ンへ行く機会に、ウイ─ン・交響楽団がJames・Lavine指揮のSmetana曲「わが祖国」演奏を聴いたことだ。座席が舞台」すぐ前の横側だったので指揮者のジェスチャー、表情などをはっきり観られたわけだが、汗をたらたら流しつつたまには口を大きく開いて何かを叱咤し、たまには目をそろりと瞑りながら満足を現す彼のジェスチャーに好感を持てたものだ。
そんなわけだからか、またはわが国のようにしばしば外勢の侵犯をうけたチェコ人の祖国愛を描いた曲だったからだろうか、甘美でもあり凄絶でもあると思えば悽絶にもなる、一言で云うと呼訴力強いその曲が私の胸に染み込むのを感じた。
ユニークな経験はドイツのBrandt首相葬式に弔意使節として参席した時に持つことが出来た。ベルリンのドイツ国会議事堂で行われた永訣式では普通の場合と異なり、司会者が式順を紹介する手順が無かった。シューベルト作曲未完成交響曲の一楽章演奏で式が始まり、名士数人の弔詞が続いた後に再びその交響曲一楽章が演奏された後で式が終ったのだ。永訣式は実に厳肅な雰囲気の中で行われて、良い交響曲はそのような場合に眞価を發揮するものだと静かに実感した。
交響曲を始め古典音楽は悲しい時ばかりでは無く、嬉しい時、楽しい時、感激な時など、どの場合でも実に有用に活用される。静かに思索へ陥っている時は誰よりも優れた友になってくれる。そればかりでは無い。私の経験に因れば勉強する時にその能力を高めてくれたりもする。私は高等考試を準備する時、音楽鑑賞室に行って「詩人と農夫」のようなけたたましい曲を申し込んでその曲を聴きながら本を読んだが、そうすると進度も早いし頭にも良く入ったものだ。そのおかげで容易く国家試驗に合格したのではないかとも思われる。
すでにわが国も古伝音楽が広く愛聽され、誇るに余る交響楽団を持てるようにもなった。たまに
我が楽団や音楽人が海外へ演奏旅行に出掛けて國威宣揚に一助していることは実に誇らしい限りである。世界に広く知られた指揮者があると思えば、ずば抜けた声楽家、ピアニスト、バイオリニスト、チェリストもざらに居る。まさにわが外交が芸術とも踊れるし、また踊るべき時代に差し掛かっているのだ。
2. オペラ
私は何でも見物することにすごい興味を持っているので、機会があればオペラも観覧して来た。芸術性の高いものを観る時は見物と言わずに鑑賞と言うそうだが、私は専門的な知識も無く批評する資格も無いので、どれほど芸術性が高いものであってもただ観覧するといった軽い気分で楽しんで来た。
私がオペラを初めて見たのは、終戦後六・二五事変以前に明洞の国立劇場で李仁範と馬金喜主演の「ラ・トラビアータ(椿嬉)」で、二度目に観たのがニューヨークで観た「カルメン」だった。わが国へ来て独唱会を行った事のあるテノールRichard・Tuckerと、その時期盛んに名を掲げていたメゾソプラノRise・Stevensが主役だったが、わが国で観たオペラとは、よく言うように「クラス」が異なるものだった。
その時期私はワシントンで勤務中だった。ニューヨークに居る一人の高校後輩が送ってくれたオペラ観覧券を受け取った時その誠意を無駄にするわけにもいかないのでニューヨークまで行くことにしたが、私が受け取る薄給では堪え難い支出を感受せねばならなかった。
ニューヨークまでの航空料、ホテルの宿泊費、食代、その他雑費等大変な費用がかかる旅行だったのだ。大使館同僚等が、たったのオペラ観覧目的でそれほどの大金を浪費する私を心の中であざ笑うのは知れたことだ。
それでも私はニューヨークへ行った。その後輩と嬉しく出会い、オペラも観想したし、ニューヨークの夜街も楽しんだ。そうしながら私は少しも後悔しなかった。かえって青年外交官としてなすべき事を果たしたとの潔さが私の気分を明るくしたものだ。
それから7~8年歳月が流れた後に私はパリ・オペラ座へ行った事ことがある。会議参席のためソウルから飛んで行った機会に苦労してチケットを求め、同僚四名と共に堂々とオペラ座に入ったものだ。
中へ入ってまず目を見張ったものは観客、特に女性達の華麗な身なりだった。彼女らの目的はオペラを観ようとするよりは自分を見せびらかし、上流社会に包まれる自己陶酔を味わうとしているように見えた。
やがて幕が上がり軽快でとろけるような旋律に嵌まっている時、横で思いもよらぬ恥ずかしい事が起った。我が一行の中で鼾の声が聞こえてくるのだ。初めは独奏だったがやがて合奏に発展した。膝をひねって眠りから覚せようとしたが効果はほとんど無かった。
一幕が終わるや否や私達は外へ出た。まだ夜が更けてなかったので、ホテルへ戻るよりショーでも観ようとの意見が纏まった。わが一行はとある小さな酒場へ入った。音楽が騒々しかったが、踊り子の巧みなダンスが目を楽しませるのか、一行のうち少し前とは異なり鼾をかくところか居眠りやあくびをする人が一人も居なかった。
その頃はまだオペラに出演するわが国の人は、主演はおろか端役に出ている人も稀だった。もしかしたら踊り子の中とか合唱する群れの中には混じっていたかも知れない。それが今や堂々と主演を行いつつ名を挙げるわが国の歌手がどんどん排出されている。実に誇らしい事である。そして彼等も我が貴重な外交資産として活用出来るという事が頼もしかった。
もっともイタリアで硏修している三千名を始め世界到るところで数多くのわが若い音楽徒が希望を抱いて全力を尽くしているからには、その中で珠玉のような声楽家が出ないのが却っておかしいと言うべきだろう。
3. ミュージカル・ショー
この頃ミュージカルが盛んだ。海外でずっと前に人気をあびつつ公演されたミュージカルが遅ればせにわが国へ入って数多くの観客を引き寄せたものだが、今は我々が創作した明成皇后のようなミュージカルがニューヨークへ進出すると思えばロンドンでは英語で公演し好評を受けるまでに到った。実に殊勝で、これがわが国を世界へ知らせる事に大きな役割を果たしていると思えば誇らしくもあった。
私は幼い頃からミュージカルショーを好んだ。日帝時代、いわば私が中学生になった時からだ。
今のミュージカルとは少し違う、楽劇と呼ばれるものだった。演劇に音楽を混ぜて愛を告白する場面とか、別れを惜しむ場面をセリフの代りに歌で演出して劇的効果を高める形式だった。
解放になり、有名だった作曲家金海松さんが作った「KPK楽団」、歌手尹福姬の父親であるコメディアン尹富吉ショーのような楽団等が新たな形式のミュージカル・ショーを試図したが、六・二五事変が起るや、ショーに携わっていた人ほとんどは軍慰問団に動員され、私はショーを観る機会を失った。そうする中で外交官になり、美国への進出と共にショーを好む私に黄金期が訪れたのだ。私を喜ばしたのはニューヨークにあるRadio City Hallだった。私が入ってみた劇場の中で最も大きい場所で、トイレットは普通の家の応接間に劣らぬ大きさで華麗だった。ミュージカル・ショーはいつも映画上映の後に公演された。
ミュージカル・ショーは超大型パイプ・オルガン独奏、Pop・Orchestraの軽快な演奏から始まり、歌と踊り、コメディ、華麗な衣装のRevue等で続かれた後に60余名の美女が水泳服姿で登場、一列に並んで肉体美と脚線美で華麗な舞台を演出するのをラストに幕を下ろすのが固定メニューだった。ワシントンで暮しながらニューヨークへ行くのが容易くはなかったけれども、私はニューヨークへ行けばこのRadio・City・Music Hallへ行くのを外さなかった。言わばニューヨーク滯在日程作成での固定メニューになってしまったわけだ。
そんな中で、ついにかの有名なBroadwayで本格的なミュージカルを観る機会が来たのだ。それもLeonald Rubinstein作曲の名作と数えられる「West Side Story」を観ることになったのだ。映画にも製作されてすごい人気を受けたし、遅蒔きながらわが国でも公演されたこの名作を本場で観ることが出来ようとは夢にも思わなかったが、実に偶然なことだった。
1958年の秋、ニューヨークを訪問して駐UN代表部で勤務している一人の同僚とBroadwayを歩いていると、ある劇場の前が人山人海を成しているのが目に入ったのだ。当時大変な話題を巻き起こしていたWest Side Storyの公演時間が押し迫ったからだった。
私は隣りの同僚に「あれを観れたらどれほど嬉しかろう」と嘆くように言った。すると彼はほんとに観たいのかと訊いてから劇場の中へ入ったが、暫くしてにやにや笑いながら観覧チケット二枚を持って帰ってきたのだ。劇場の責任者に外交官身分を明して、本国からおられた珍客をもてなすために必要であると懇請したあげくにやっと受け取ったとのことだった。
棚からぼた餅だと言いつつ二人で入った劇場はさほど広くなく舞臺も簡素な裝置だったが、音楽も良かったし出演者の熱演も見事だった。新版の「Romio and Juliet」だったが、あの時期にそれを観ることが出来たわが国数名の中に私が入ったことが誇らしかった。
ミュージカルと言えばニューヨークのBroadwayがすぐ浮かぶが、ミュージカルの本場としてロンドンが場を固め始めて長くなった。以前はBroadwayへ進出する前に人気の尺度や成功與否を図るためにロンドンでひとまず新作品の試演を行ったと知っていたが、今やロンドンが中心の場を占めたのが喜ばしい。
私はロンドンでミュージカル「Miss Saigon」を観覧した。ベトナム敗亡が我等には他人事には考えられず、尚わが国もベトナムに派兵までしたので他人事ではない感懷でミュージカルを観たが、国を失った悲しみと戦いで負けた悲しみがどうなのか確実に見せてくれたのが感動的だった。
わが国でも遅まきながら絶讚裡で上映された「Phantom of Opera」を私はオーストラリア・Melbourneで観た。良いミュージカルは何処でも歓迎されるもので、芸術とは少し掛け離れた感じを与えるこの国の人々も満席を成す盛況を見せたし、そのためか私も遠い国まで来た機会にこのミュージカルを観たのをとても良かったと感じたものだ。もっともSydneyに世界で誇るOpera・Houseを持っているオーストラリアだけにこの国の芸術性を卑下せてはならぬ事だろう。
フランスはミュージカルよりミュージカル・ショーで世界的に有名な国である。パリを訪れた人の中でLido Show とか Moulin Rouge Showを観なかったとか知らない人は無かろう。シャンぺンを飲みつつ狂乱に近い「French Can Can」の乱舞を観ていると、誰もが自身もフランス人になってしまう錯覚を起こす。口を大きく開けて力強くフロアに下りて座っても何でもないのがめずらしい事でもあるが、自分の娘には絶対そんなことをさせまいと独りで考えることになるのはどうしようもない軟弱なる父情であろう。どんな仕事をしようが寡欲は禁物だが、我らがパリでなくともロンドンを見習っては駄目だといった法は無い。我等の才能をもって東洋のミュージカル・センターになって見せる夢を育むのも良かろうと思われる。
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