[隨筆] 外交は踊る : 崔浩中 [25] - 번역 [飜譯]/韓日飜譯 [한일번역]
「四」 敵との舞い比べ
「太陽政策」と呼ばれる包容政策を対北政策の基本にしていたわけか、六・二五動乱以後ずっと「主敵」としていた槪念に異義を提起する世態を見せている。北朝鮮も南北頂上の間で六・一五宣言まで行なったのが、自分達を主敵とするのは話にならんと我らを非難している様子だ。
しかし未だに休戦線を間に置き南北が対峙している厳たる現在の状況下で、北朝鮮を主敵に回さねばならないのが現実だった。外交面に於ても北朝鮮を敵と直說的に表現はしないながらも、ずっと対決構造を保って来たのが事実なのだ。
我々は分断国家である故、外交に於いて他国の外交とは異なる一つの特殊な側面を保って来た。それは各々が南北に分かれた独立国家として国際舞台で外交を広げているいる故、必然的に相互競争を行なうしか無く、競争するからには必ず勝たねばならぬとの宿命のようなものだった。そんなわけで「北傀制圧」が口癖のようになってしまったのだ。北朝鮮傀儡集団を外交戦線で制圧せねばならぬとのことである。
北朝鮮も我らと外交戦線で戦って勝たねばならぬとの強い執念を見せて来た。いわば外交戦線では南北間熾烈な舞い比べが続けられたのだ。踊りで誘惑しつつ可能な限り多くの国と国交を結ぶ競争がその基本だった。
我らの伝統友邦は、北朝鮮とは関係を結んでいなかったし結ぼうとも思っていなかったので気にしなかったけれども、友邦の中にも中立政策を掲げている国々は南北韓同時修交が彼等の政策に附合すると云いつつ北朝鮮と外交関係を結び始めのだ。スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、デンマーク等、北ヨーロッパの国と、スイス、オーストリア等の国家だった。
このような勢いは我らが外交力を集中しても塞ぐには難しかったわけで、我等はかの国々と同時修交を行なっていても、北朝鮮よりわが国と桁外れの親密関係を維持し、発展へ進むことを外交力點に置いたのだった。
問題は非同盟第三世界に属している国々だった。わが国とのみ関係を結んでいる国が北朝鮮とは関係を結ばないようにする事へ全神経を注がねばならない。全然知らなかったのが、突然北朝鮮との修交を発表する国が現れる事態が起れば、その国のわが大使は大変な問題を背負わねばばならず、予め知っていたとしても、それを塞げなかったとすればその責任もまた細やかではなかった。反面、北朝鮮とのみ修交している国家へ入り込みわが国とも関係を結ぶことに成功すれば、これは一大凱歌であるに違いなく、修交勳章が受與される慶事だったのだ。
修交だけで無く南北が対立する全ての外交事案で、我らは北朝鮮を押えて勝たねばならなかった。我が統一政策をはじめ様々な外交政策に対する支持を確保する仕事、人権弾圧を行なう北朝鮮の実体を暴露すること、続いて国際機構の理事国競合でわが国が選ばれるように働くことに到るまで実に様々な対決であった。
北朝鮮の外交攻勢も熾熱だった。北朝鮮を支持する勢力は共産圏が主流なのは勿論の事だが、これに加勢するのが第三世界と呼ばれる比同盟圈、その中でも左傾国々だった。我らに外交慘敗をもたらせたのも実にこの比同盟圈だったのだ。
1975年ペルのリマで開かれた比同盟会議で我等が比同盟加入を試圖した際、北朝鮮は彼等の支持勢力の先鋒アルジェリアと越盟を前に立たせてわが国の加入を塞ぎ、自分等のみ加入する事に成功した。米軍がわが国に駐屯していて、相互防衛條約を結んでいながら比同盟隊列に入ろうとする我が着想が少し突拍子なことではあったけれども、まあそれが我々に外交惨敗をもたらせたのは予見していた帰結だった。
非同盟加入に失敗したことで崩れる我々ではなかった。比同盟圈を主導する国々と個別的に接近する方向へ戰略を替えて踊りを始めたのだ。亜細亜では印度とインドネシア、中東地域はイラク、アフリカではアルジェリアとナイゼリア、中南米ではキュウバなどが強い発言権を行使していた。我らはこの中でキュウバを外した国々がわが国へ接近して来るように踊りで近付き、次第に成果を挙げ始めた。
こうなると北朝鮮は正常的な方法で我々に対抗することは難しいことを悟り、浅ましい事を行ない始めた。ミヤンマ訪問の全斗煥大統領一行を爆死させるテロ行為を恣行したのだ。その中には李範奭外務長官, 金東揮商工次官, そして私の高校同期の李啓哲駐ミヤンマ大使が挟まれていた。実にうら悲しいことであった。
続いてそのミヤンマ前海で大韓航空の民間旅客機が空中爆擊を受けた事件が発生したのだ。後に明されたことに依れば、北朝鮮が送った金賢姬が、機内にこっそり設置した時限爆彈爆発だった。この時私の同僚である姜錫在註イラク大使夫婦が死亡した。まったく途方もない事件の連続だった。
私が味わった苦笑の事件もあった。 駐サウジアラビア大使の時、隣国の北イエメン兼任の初代大使に任命され、その国の首都サナ(San'a)を訪問した時の事である。
大使信任狀を提呈しに行ったのだが、その国の外務部儀典長が、遅くても大使信任提呈日決定の前日に連絡するから、ゆっくり数日待ってくれと云う。それは、兼任大使等が信任狀だけを出してさっさと帰るので、その国の山川や人々との出会いなどを楽しむ時間を与えるのが目的だとの説明だった。
かれこれ五日が過ぎたが何の音沙汰もないので、私は退屈になり隨行員供と一緒に60キロ離れた所にあるという、かの有名な「シバ」女王遺跡地を訊ねることにした。簡単な服装を纏い出発準備をしているとホテルの案内より電話が掛ってきた。外務部儀典車が来て待っているというのだ。
びっくりして聞返すと、その日信任狀を呈上することになったので私を迎えに来た伝えるのだ。昨日外務部関係官がホテルへ電話をかけてこの事実を通告した時、ちゃんと韓国人が分かったと言ったそうだ。
これですぐ思い当たった。我らがホテルに到着した時から北朝鮮大使館要員がずっとホテルのロビーで我らの動態を窺っていたが、彼等が我が一行であるふりをしてその電話を受け、我らをこらしめようと知らんぷりしていたに違いない。危うく大変なことになるどころだったが、幸いにも時間に余裕があったので、私達は急いで信任狀呈上場所の大統領宮へ向った。
呈上節次は簡単だった。大統領へ信任狀を呈上した後、別室へ移り少し歓談を交わしたが、英語通訳を外務部長官が直接担当するのが特異だった。大統領は儀礼的な挨拶を終えた後、南イエメンは北朝鮮が関係を保つため親密にふるまっているが、我が両国はこの先、より親密な関係へ発展させようと言った。
北朝鮮よりわが国ともっと親密になろうとの大統領の言葉は実に驚くべきことだった。今は統一したが、その頃はイエメンが南北に分かれていて、南イエメンがより左傾の路線を踏んでいたが、両方とも社会主義国家で、北朝鮮と外交関係を結んでいたのだ。北イエメンも北朝鮮とすでに20年もの長い期間国交を結んでおるので、今やっと関係を結んだ我らをより身近く思っているとは、期待に余ると言わずにいられなかった。
それ故、このような趨勢を良く知っている北朝鮮が、一般常識では出来ない外交的奸計や醜態を演出までしつつわが国と立向かってみようと全力を尽くすのが明らかだ。これはあざ笑うだけでなく憐憫の情まで引き起こす現状だったが、だからといってそのままにしておく事ではなかったのだ。
外交舞台でしりぞき始めた北朝鮮は、時代的流れに逆行する政治路線を固執する誤謬とも噛合い、今や政治路線で仲間外れになり、孤立化になって行く。外側で見放される北朝鮮が内側だといって平穏でありえないことは確かだ。自由を失い抑壓と窮乏の中であえぐ北朝鮮の住民が、人間らしく生きて行くには北朝鮮が改革と開放を以て、かの基本政策を換えて行かねばならないが、果たしてそれが可能か、可能ならば何時になればだろう。
北朝鮮との舞い比べで勝ったとして限りなく嬉しがることも出来ぬ我らは、そうだからこそ心が常時重くて苦しいわけだ。
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