国會答辨 [二十六] - 崔浩中著   -   번역 [飜譯]/韓日飜譯 [한일번역]

国會答辨 
政務次官補になり, 国會對策に多く關與することになったのは新たな經験と言えよう。
主に外務委員會との緊密な協調を取ることだった。國會が開かれると、本會議より外務委員會の方で政策質疑が猛烈に起り、棘ある質問が間断なく飛び出すのも珍しくない。
  
現代アパート事件が起きた時は、外務部職員の中にもアパート特惠分讓を受けた者が幾人か居るとのことで、外務委員會で物議が醸し出された。質問にでた李哲承新民黨總裁は、外務公務員が何の金でアパートなど求めれるのかと問いただすのだった。答辯にあたった長官は、李哲承議員が坐っている向かい側に目をすえ、静かに口を開いた。

まず、公務員という言葉が貧困の代名詞の如く使われるのは納得できないことだと言った後、かりに給料は滿足するほど貰えなくとも、公務員はそれぞれ國家と國民のために奉仕することにたいし、矜持をもって所任完遂に全力を盡くしていると述べた。公務員だからと言ってアパートを持っては成らぬ理由などどこにもないと言った。兩親から遺産を受ける場合もあろうし、或は資産家の婿になって、義父から買い求められることも有りうると述べた。

實に大胆な答辨である。するどい反撃を受けた李哲承議員は、そんなことを知らないで質問したわけではないと言ったきり、それ以上問いただそうとはしなかった。朴長官の判定勝を認めたわけだ。これが新聞のゴシップ欄にそのまま引用され、外務部はもとより、政府内各部署の公務員までが自分の立場を胸がすっとなるほどうまく代辨してくれた朴長官に賛辭を送った。

歴代外務長官の國会答辨にはそれぞれに特徴がある。
崔圭夏長官は質問にたいし抜かり無く答辨するのだが、聞き終わっても何とこたえたのかすっきりせず、物足りない感じがするとのことだった。朴浚圭外務委員長は崔長官の答辨を、立てた板に水を注ぐようにすらすら言葉が流れるが、聞き終わるとなんか味氣ない氣がすると評した。

金容植長官も、能辨だが核心を避けるのが得意だった。吳世應新民黨所屬議員が、金長官のあざけるような表情が氣持ち悪いと言うや、持って生れた表情でいまさら手術するわけにも行かず、ほんとに申し譯ないと言いかわす。呉議員があれこれ質問すると、金長官は、一度にいろいろ問うと困難な答辨は抜かすかも知れないし、またうっかり忘れる恐れもあるから一問一答にして欲しいと言った。呉議員が、外交を行うなかで手形が行き交うことがあると聞いたが事實かと問うと、アフリカなど後進國から財政援助を要求する場合、大した金額では無いにしても現金で渡すわけには行かないので手形にして渡すことがあると答えた。呉議員が他國の代表を金で買収することがあるかと聞いたのを、かように要領よく答辨したのだ。

金東祚長官は國會出席を嬚った。定期國會は毎年九月に開かれるのが習わしだが、金長官は九月に行われる國連總會の參席を理由にニューヨークへおもむき、何ヵ月も留まっていたりした。そんな時は次官が代理出席し、辛い目にあうのだった。
金東祚長官が駐日大使を務めていた頃、國會の國定監査團が東京を訪れたときのことである。決められた監査日程に鑑み、出來る限り多くの報告を行い、質疑答辯の時間を縮めるのが上策と考えた金大使は、政務、經濟、領事分野毎に、各擔當官へくどいほど長長と報告するように指示しておいた。それにもかかわらず時間が余るや、獎學官に在日同胞の子供達の教育状況を追加して報告させた。金大使の意圖を見抜いた柳珍山監査委員が、時間がないから簡単に報告せよとせき立てたが、獎學官はすぐ終わると言いつつも報告をだらだらと續けた。こうして別にかわった質問も受けず監査を済ませることができたのだった。

アフリカ大陸まで
その年、即ち1978年11月に私は初めてアフリカの土地を踏んだ。嚴しい状況に置かれた地域の大使館を訪れ、大使や館員を勵まし、實情も把握して來るようにとの朴長官の指圖を受けたのだ。
ソウル出發後、夜通し北極を飛んで次の朝パリ到着、その日の夜再びアフリカ行き飛行機に乘ると風邪気味の微熱が出た。健康には自信があると思っていたのが、歳のせいか過勞に參ってしまう自分の體が情けなかった。

最初の寄着地はアイボリコストのアビジャン。外務考試同期生の韓宇錫(政務次官補, 駐佛大使歷任)大使が温かく迎えてくれた。風邪氣味には汗をたっぷり流すのが一番だと、無理やりゴルフに連れ出したが、疲れを堪えて9ホールを回ると氣分がすっきりして快かった。

1泊した後カメルーンへ向った。首都ヤウンデは高台に位置しており比較的涼しい。大使生活をここでスタートした全祥振大使が'野雲台'と呼んだ所だ。おなじく外務考試同期の蔡義錫(駐ニューヨーク總領事、駐スペイン大使暦任)大使がやさしく迎えた。
外務省を訪れ對談する際は、フランス語をしゃべれない私に代って自ら通譯してくれる。有りがたい一方濟まない氣がした。こんな僻地で暮すのは大變だろうと勞うと、住めば都と思いながら暮すしかない、と答える。三日間の訪問を終え、別れるときは胸が痛んだ。マラリア蚊がすごくて常時キニネを服用せねばならず、だと言って100パーセント安全でもないので、子供や夫人を亡くした同僚も有ると言う。くれぐれも健康に注意してくれと繰り返し繰り返し言った。

アフリカを橫斷して東に飛ぶ飛行機がザイルの首都カンシャシャへ寄着すると、朝早い時間であったが、もう一人の外務考試同期、申基欽大使が空港で待っていた。一泊もせず行ってしまうのを殘念がる。私は、期待してなかったのに逢えただけでもうれしく、またありがたい、忙しい日程を了解して貰いたいと言った。持參した海苔と干し魚をみやげに渡すととても喜ぶ。長こ程、氣をつけろとの申大使の言葉に、嚴しい土地だろうが頑張って欲しいと勞りつつ別れを惜しんだ。   

飛行機はアフリカの腰の部分にあたるところを通ってブルンディの首都に寄った後、午後遲くケニャのナイロビーに降り立った. 鄭度淳大使の溫厚な顔が見える. アフリカで最も暮らし良い處と知られている通り氣候も程好く涼しい上、市街地も結構整っているように見えた. エチオピアへ行く折りに寄着しただけなので別にこれといった仕事もなく, 鄭大使の誘いをうけて次の日はゴルフとなった.

正午出發の飛行機に遲れないように、ナインホールだけ廻ろうとしたのが、コースががら空きで、二人とも足取りが速いのか、一時間足らずでナインホールを濟ませたので、やりかけたついでに殘りのナインホールも樂しむことができた. 高原地帶だからなのだろう、普段よりボールが遠く飛び、スコアも滿足なほどだった.
雪をかぶったキリマンジャロや, 猛獸が疾走するサファリ自然動物園などを觀れなかったのは殘念だが、まあ觀光旅行ではないから慾を出すわけにもゆくまい.

エチオピアのアディスアババに降りたとたん、まるで共産圈へ舞い込んだような氣がした. 空港の建物には赤旗がなぶき、マルクス, レーニン, エンゲルスなどの大きな肖像畵がずらりと掲げられている. 遠いところまでわざわざ訪ねてきたことに感謝する鄭熙澤大使を前にして, 私はどう言ったら良いか言葉につまった. 左傾政權にかわり、ソ連軍やキューバ軍が力をかしている中で, 大使館を依然と開けて外交關係を維持している現状が信じられないくらいだった. 鄭大使の、エチオピア外務省をはじめ政府要路との厚い親交関係保持がためになったことだろう. それに加え、エチオピア側の要望通り軍服や軍靴, 鐵帽などの軍裝備を我國が速やかに供給し續けたのも關係惡化を防ぐのに役立ったと思える.
 
私の訪問を受けたエチオピア政府高官は、北朝鮮の工作が執拗なのは確かだが、それでも我国との友好關係は維持する方針である旨を明確につたえた. 我國のめまぐるしい經濟發展にたいしては常に承知していると言い加え、可能ならば、ぜひ力になって欲しいと頼むのだった.

私は、エチオピアとの關係は心配しなくても良いと判斷した. これだけでも私のアディスアババ訪問は十分な成果を挙げたと思った. 歸國する次第、この様様な惱みを抱えた土地で苦勞している同僚に對し、いっそう本部の支援を强化するよう、朴長官に强力に建議しようと心のなかで誓いつつ、アフリカを離れた.

アフリカの土地を踏んだことで、私は、共産圈を除けて世界中のほとんど全部を廻ったことになる. 勿論地球上の國すべてを訪れたのではないけれども、私ほど多くの國を訪問した人は稀であろうと、つい自慢心が頭をもたげた.
アジア, 大洋洲, 南太平洋, 北米, 中米, カリーブ海域, ヨーロッパ, 中東, そしてアフリカ. これほど膨大な地域を、よくも訪ね廻ったものだと自ら殊勝に思う. 黃人種, 白人種, 黑人種など、各各が與えられた條件のもとで生き抜くため一生懸命はたらき, たまには苦惱に打ち拉がれ, それにも拘らず子を生み、種族を繋いで行く. その中に我國も入っているのだ.

最も暮しよい國はどこかと問われたら, 私は、いつ戻っても懐かしく、人情にあふれた我国であると、戸惑わず答えるだろう. 加え、それがうわごとにならないように、われら一人一人が不斷な努力を重ね、平和で豊饒な國造りに励まねばならぬと、重ねて强調したであろう.