北イェーメンとの修交

サウジアラビア右側に隣り合わせとなっている國が北イェ-メンで、その南側に南イェ-メンがある。今は二つのイェ-メンが統合されているが、当時は各々独立国家で、両方とも社会主義路線を踏んでおり、従って北朝鮮と互いに外交関係を結んでいてわが国とは公式関係を持っていなかった。
南イェ-メンの方がより過激的な政策を敷いており、わが側では外交関係を結ぶことなど想像もしていなかったが、北イェーメンは比較的穏健だったので、関係樹立不可能と断定することはないと判断し、根気よく努力を続けた。石油が発見されるまでは非常に貧しい國で、数百万の人人がサウジアラビア等他国へ渡って雑業に従事して稼いだお金を自国へ送り、それでほそぼそと暮していた。

輸出産業といえば、質の良くない岩塩があるくらいで、わが国ではそれを政策輸入することにより彼等から好感を得ようとしたが、思う通りにははかどらなかった。
私も1977年、経済次官の頃この交渉を行うためにサウジアラビアまで赴いたが、ビザを貰えず目的を果たせずそのまま戻ってきた経験がある。

しかし歳月が流れた今は世態も変わり、ひたすら努力すれば不可能なことも可能になる場合が有るもので、私の前任者の崔光洙大使が1985年の終り頃北イェ-メンとの修交に成功した。それから彼は駐UN大使に榮轉し、その後を追って駐サウジアラビア大使となった私が、兼任として駐北イェ-メン大使になる光栄を享受することになったわけだ。

私が大使信任狀を携えて首都サナ(SANA)を訪れたのは1986年の秋であった。多くの国の駐サウジアラビア大使が北イェ-メン大使を兼任するので、その時私が利用した航空機にもカナダ等数ヵ国大使が同乘していた。

国際元帥に対する信任状提呈はその國に到着した順番に行なうのが慣例になっており、私が他の大使より一歩早く飛行機から降りて北イェ-メンの地を踏んだということで先任大使の礼遇を受けることになった.しかしながら数日が経っても信任状提呈日時が決められず私たちをいらいらさせた。
外務部儀典官は、兼任大使が信任状を差し出した後さっさと帰ってしまえば自分の國に対して知らずじまいになるから、幾日か留まりながら山川を見回り、人々との交流も持つようにするためだと説明し、ゆっくり待って欲しいと伝えるのだった。 

なんとか日日を過ごした5日目の朝, 私は退屈凌ぎに隨行員を伴い60キロぐらい離れている、かの有名な女王シバの遺蹟地を訪れることにした. 信任狀提呈の日はその前日に通告してくれるはずだから,その日は大丈夫と信じていた.
ところがホテルの案內より電話がかかってきた. 外務部儀典車が玄関で待っていると伝えるのだ. びっくりして聞き返すと今日が信任狀提呈日で私を迎えに来た車だと言う. 昨日外務部關係官がホテルへ電話しその事を通告した時、ちゃんと韓国人が受けて了承したと言ったそうだ.

すぐ頭にピンと来た. 私たちがホテルに到着した時からずっと北韓大使館要員がホテルのロビーでこちららの動態を探っていたから, 彼らが一行になりすまし、外務部電話を受けた後、私たちに泡をふかせようと口をつぐんでいたに違いない. 大変なことになるところだったが、幸い時間的餘裕があったので私たちは急いで正裝に着替え、儀典車に乗って大統領宮へ向かった. 他の大使たちはすでに到着していた.

信任狀提呈の手順は簡單だった. 大統領に信任狀を提呈した後別室へ移り、しばし歡談を交わすことになっていた. 大統領は英語を話せず、私はアラブ語ができないので陪席したその国の外相が英語通譯にまわった. こういう点は軍事革命を以て執權した国家でちょくちょく見掛ける、權威主義統治體制の明しといえよう. 

大統領は、恒例的挨拶を述べた後、南イェーメンは北韓と非常に親密な關係を保っている, われら両国もこれに劣らぬ厚い友好關係を築こうではないかと言い, そのためには南韓も兼任大使ではなく常駐大使を送ってくれるのが望ましいと付け加えた.
これは驚くに余る話である. 北韓と20年にわたる永い期間國交を結んでおりながら、ただいま關係を結んだばかりのわが国をより身近に感じると言うではないか.

私はこのことを本國政府へ子細に報告し、常駐大使を北イェーメンに送ることを强力建議した. 北韓大使館のけしからぬ仕業を防ぐためにも是非必要であると信じたからだった.
幸いこの建議が受け入れられ、しばらくして兼任を免れることになったので、私は離別挨拶のため再度サナを訪問した. 海拔2千メートルを越えるところで酸素稀薄と言われるが、私は別に苦痛を感じることもなく, かえって爽やかな気候がすがすがしかった. 北イェーメンは貧しいけれども好感の持てる国だった. まめまめしくはたらく小さな體軀の人々も, 3階, 4階になっている石造りの家家も気に入った. 家屋の建築樣式がユニークなのかヨーロッパの觀光客がひしめき合っていた.
ややむさくるしくて無秩序なところが欠点と言えば欠点であるが、貧しさがそうさせるわけで、今は石油も發見されたし, 南·北イェーメンが統一されたから次第に向上するだろうと希望をかけたい....


錦衣還鄕

サウジアラビア在任3年になる1988年末が近づくや心がだんだん暗くなった. 滿58歲の年で停年退職になるからだ. 外務公務員法に基づき、特一級大使職昇進後8年になると身を引くことになっており, 年末が満8年になるのだ. しかし悔いはなかった. 私が天職と思っていた外交官生活を大過なく終え、光栄を以て退き、様々な追憶を偲びながら悠悠自適に餘生を送ることも悪くないと思った.

そんなある日、UN總會參席のためニューヨークに留まっている崔光洙外務部長官から國際電話がかかってきた. いろいろ考えてみたが、私をそのまま退職させるわけにはいかず、と言って適当な空席もないので、とりあえずこの度分離させる事になった駐EC大使の席を私に任せようと考えているから了承して欲しいと言う.
私には選擇の餘地など無かった. 気を配って頂き感謝すると答えた. ECはかって私が駐ベルギー大使だった時兼任したところで、乗り気になるほどの座ではなかったが、特任公館長として、2,3年間のうのうと暮しながら余生を設計するのも悪くないと思った.
荷物をソウルへ送るものとブリュッセルへ送るものを別々に纏めて置いたが、11月も過ぎ12月に入っても正式發令が届かない. うかうか年末を向かえると萬事休すになると思うと居ても立ってもいられなかった. といって外務部に催促するわけにもゆかない.

ちょうどその頃ソウルから改閣が迫っているという噂が相次いで飛んできた。外務部長官も對象になっていると伝える.
新聞ではどんぐりの背比べと言っていた. 後任外務部長官になる人材を物色している中だが、選ばれた候補が似たり寄ったりだとの例えだった. そのどんぐりの中に私が加わっている. 遠く離れたサウジアラビアから俺も入れてくれと頼めるはずもなかったが、なぜか加わっていた.
新聞を見て大使館の職員たちが私よりもっと騒いだ. 有力だとか、間違いないとか言いつつ, 自分のことのように神経を張り詰めていた. 私は、まさか自分が、と思っていた.

サウジアラビアはソウルより6時間遅い. 真夜中の12時はソウルは翌日の朝6時になる. 1988年12月4日の深夜、私はソウルからかかってきた電話の受話器を取った. 私が商工部次官をしていた時の長官、琴震鎬氏からだった. 数時間後改閣が發表されるそうで, 私が外務部長官に確定されたことを前もって知らせる電話だった. まさかが人を殺すと言うが、そのまさかが私を救ったのだ. まったく停年退職寸前の峠で、想像もしていなかった反轉により私が閣僚の一人として錦衣還鄕することになったのだ.
電話を受けた私の心境は意外にも淡淡としていた. 私が出来ない訳などない、ぐらいの反應と言おうか。家内は私の顔色をうかがいながら喜びを噛み殺しているようだった.

本國より公式長官任命通報を受けてもいないのに、ソウルKBSから國際電話がかかってきた. ただいま改閣發表があった, 長官就任の所感と今後の抱負などを聞かせて欲しいとのことだった. 私は、そのような話はソウルにもどってからすると言ったが, どうしても2,3言述べてくれと食い下がるので、光栄に思っている、最善を尽くすと言った、ありきたりの答辯をのべた.

外務部より正式通報が届くと大使館は祝祭雰圍氣に包まれた. ニュースは僑民社會にも広がり、誰かれなく押し掛けてきては目出度い事だと私に祝辞をのべ、喜びを分かち合った.
サウジアラビア朝野も同じだった. 自分の国に来ている大使が外務長官になるのは稀な事で、きわめて光栄だと言ってくれた.
私は5日間ですばやく離任の手続きを終え、リヤードを発った. 心は一気にソウルへ飛びたかったが, 航空便の都合でバンコクで1泊せねばならなかった. ソウルまでの飛行時間は合わせて15時間もあったが、私は座席にじっと座り続けたままあれこれ考えに耽っていて退屈も感じなかった.

私が外務長官になろうとは! まったく夢のような事實だ. 外交官になろうとソウル大学文理科大学政治學科に通いながら, 後日駐UN大使になることを夢みた. それが、もっと上の長官座につくことになった。まったく世の中の出来事など判りそうで判らないと思った.
どうして新聞で挙げたどんぐりの中から私が選ばれたのだろう。他人より背が高くもなければ, 肉付きのよい堂々とした体躯の持ち主でもないが.... しかし何と言っても私が選ばれた確固たる事實だけが重要で, その他はどうでも良かった.

振り返ってみれば実に永い旅程だった. ある先覺者が、泰山がどれほど高くともひたすら登るかぎり登れぬわけはないと、われらを悟らせたものだが, 私のような鈍馬も休まずに一歩一歩登り続けたあげくに山頂へ辿り着いたのである. そしてそこに構えていた外交司令塔を占めたのだ.

飛行機がだんだんソウルに近づくと、私は空港に押し寄せているはずの報道陣を意識し始めた. 相次ぐ様々な質問攻勢にどう答えようかと考えを纏めながら飛行機の窓外に目をやると, 冬に入ったばかりの季節で、懐かしい山野がきれいな初雪に覆われているのが見えた. サウジアラビア上空を飛びながら幾度も見下ろした黄色いはげ地とは至極相違な眺めだった.
このように美しくて平和な恵まれた土地で、4千3百萬のわが民族が肩を寄せあって生きているのだ.  私は、その中に混じっているのを幸せに思った. そして私が果たせねばならぬ仕事の大きさと重さを切感した.

空港に降りると思った通り大勢の報道陣がひしめき合っていた. 間断無くフラッシュがたかれた. 私は機内で練りに練って整えた歸國第一聲の模範答案を放り出し, 代わりに次のような話を述べた.
‘飛行機から見下ろしたわが国の山や野原が非常にきれいでした. 真っ白い雪に覆われていたのでいっそう美しかったと思います. この土地に住んでいるすなおなわが國民すべてが平和に暮らし, また、わが国民が全世界の人々から愛されるように、全力を尽くして働くつもりですので、よろしくお願い致します’.
その夜ソウルには多量の雪が降り積もった. よくこんな場合瑞雪という言葉を使うが, 私にはこの雪が、非常にうれしい瑞雪で, 私の前途が平坦であることを豫報し、祝福してくれる吉兆であると信じた.  (終)
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エピローグ

官運(官職に恵まれる運)と人福(人との交流で受ける幸い, 德)

一緒に官界へ身を入れても、ある人は長官にまで上がり、ある人は局長にもなれずじまいで官職から退く。このような場合、前者を指してよく官運が良い人だと話す。実際、その人の人柄や能力がさほと秀でているとも思えない場合がままあるのだが、それでありながらも高位層に着いたのだから、官運が良いという言葉は間違っていないと言える。

立派な人で能力もあるが、靑雲の夢を果たせず途中下車する場合を見ると、すごく惜しい気がし、官運が無い人だと同情し諦めるしかないのが気の毒でならない。
人の力ではどうすることも出来ない場合を置いて、運だとか運命だとか言いつつ自嘆し自慰するのが弱い人間の習わしだ。同じく官運の良し悪しなど生まれつきの宿命、どうあくせくしたって無駄なことだと最初から諦めてしまう人も少なくない。

しかし、この世で起るすべてのことの中で努力無しにうまく行くことなどあり得ない。其れ故、己れの前途を官運に任せ、幸運の道がひとりでに開くのを待つとか、成り行き任せに甘受するといった無気力な姿勢は望ましくない。
いくら努力しても出来ない場合が勿論少なくないが、最善を尽くしたにも拘らず思う通りにならなかった時、その時初めて運に回すのが潔いことで、努力もせず運に任せるだけでは余りにも卑怯ではないか。

私は36年間公職にありながら、官運とは人福と密接な関係にあると考えてきた。社会生活をするにあたっては良い人に恵まれねばならないのが必然だ。まず始めに重要なのは同僚。一人でする仕事より共にせねばならない仕事が多いのがわが社会であるからには、真心を合わせて働ける同僚に出会えるのが大切である。同僚だからといって常時協調者であるわけにはいかない。時には永い人生行路で競争者に変わることもある。しかし善意の競爭者は自我發展に笞打ちする促進劑役割にもなるから, むしろ無いよりはあった方が良いと言えよう。ただしその競争者が加害者、または妨害者であってはならない。同僚の重要性が強度高く感じれるのがまさにこういうわけだからだ。

良い部下に出会うのも重要である。地位が上がるほど多くの部下を抱えることになるが、部下をうまく指揮統率することも大切だが、部下がよくなつき、立派に補佐してくれるのがもっと緊要である。王が奸臣の悪知恵にだまされて国を滅ぼし、自分も滅びた例を東西洋の歴史を通して私たちは数多く見、学んだではないか。

部下の立場で見ると、いい上司に恵まれることが特に重要だ。最初からみんな上司にはなれない故、上司に仕えるのは誰もが経る過程だからこそ上司に恵まれるか否かに依って官運が決定されると言っても言い過ぎではないと思われる。
人事配置の基本原則が適材適所という言葉で集約されるが, 適材を適所に起用するということはまったく上司によるからである。

上司の立場で見れば、能力を備え、人柄も良く、よく従い、信じれる、それでいて能動的にはたらく者に重要なポストと任せたいのだから、自分をそんな人と認める上司に出会えば、出世の道が開かれるのは当然であろう。

人によって食べ物、着る物はもとより何事に対しても好ききらいがあるように、人を見る目もそれぞれ違うのは致し方ない。同じ上司に仕えていてもある者は上司の気に入り、ある者は気に入らない場合をよく見掛ける。世の中にはまったく説明不可能な、不思議なことがいっぱいだ。だから良い人に出会えばならないとか、生まれつき人福を携えるべきだという話を人々はしきりに話すのだろうう。

しかしよく考えてみると、世の中の万事がうまくゆくかどうかは、与えられた与件より自分自身によるということを私たちはすぐ分かることができる。自分がまじめにやれば同僚も喜び、部下がなつき上司が信頼するのはいとも自明なことではないか。良い同僚に出会うのを願う前に彼らの良い同僚になれるよう努力し、いい部下に出会うことを望むより先に自ら彼らの立派な上司になるようにふるまい、立派な上司に恵まれることを願うより先に上司が信じて使えるような部下になれるよう精進する姿勢を見せれば誰がその人を拒もうか。

再度正してみれば, 官運と人福は、生まれつきよりは自ら創り出すことではじめて値打ちもあり、後ろ暗く無く、また誇らしいもの故、このような心構えであるかぎりは他人を冷たく感じるとか恨むこと無く、気楽に一生を過ごすことが出来ると思われる. 

         

         

     

     

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やっと翻訳を終えました。5年余りの長い仕事でした.
手に余る仕事に挑戦しさんざん苦労しましたが、最後までがんばったのを
自らえらいと思っております。中途半端な日本語で稚拙な翻訳になりましたけど
著者が身内ですから黙認してくださるとおもいます。
最後まで付き合ってくださった方々に厚くお礼申し上げます。감사합니다.