[隨筆] 外交は踊る [48 ] : 崔浩中
g. 李範錫長官
李範錫長官は大韓赤十字社の靑年部長に居て、1960年民主党政権の時外務部へ入り、書記官として課長の下に居た。幾ばくも無く課長になった彼はその因縁で駐UN代表部へ赴き、その後座を駐美大使館へ移った時丁一權大使の気に入り、丁大使が外務部長官になるや本部の儀典長に起用された。
当時の儀典長は局長と同じ職級だったが、彼はその座で五年余り在職する間外務部の職制を数次変えながらついに大使職級にまで上がったのだ。
1970年8月駐チュニジア(Tunisia)大使になった彼は、一年半目に南北赤十字会談の首席代表になって赤十字に戻り、平壤へ往来しつつ民族的英雄になった。しかしみんなの期待のように会談がうまく進行されなくなるや、彼は1976年6月に再び外務部へ復歸して駐インドネジア大使になった。その頃本部企画管理室長だった私は、自分の權限が届く範圍內で彼に行政的志願を行った。
インドネシア大使職を遂行しつつ彼は一つの業績を残した。大使館事務室建物と大使官邸を新築したのだ。ニューデリの立地條件が芳しく無いのでそれほど大きい建物を立てるのが容易くなかったけれども、彼は様々な難しさを克服しつつその仕事を立派に成しとげた。必要な資材を求めるために自ずと香港へ行き来もしたものだ。ソウルオリンピック競技場の設計で名を揚げもした金壽根氏の設計によって立てられた大使館建物は、外観が優れていてニューデリの観光名所にまでなった。
ソウルへ戻った彼が統一院長官, 大統領祕書室長を経て1982年6月外務部長官になった時、私はマレーシアに居た。彼が目指したのを良く知っていた私は、「一度決心した事は必ず成す人だなあ」と感嘆したものだ。
その年の秋、全斗煥大統領がアフリカ巡訪途中マレーシア・ペナン(Penang)に寄って一泊した時、李長官は公式隨行員の一員として付いて来た。私はその機会に李長官へ身上問題でお願いを一つした。常夏の国マレーシアへ赴任して三年半にもなった故ヨーロッパ地域のような所へ移してくれと頼んだのである。
李長官が適当な所があるかと聞いた時、私はブリュッセルでは良いでしょうが、と答えた。其処にはEC本部があるが、經濟分野で働いた経験のある私が適当ではないだろうかとの理由を揚げたのだ。李長官はReasonableと反応を見せつつ考えてみようと言った。
年が換わり年初に定期公館長異動があった時、私はブリュッセルへの發令を受けた。私は望んだ所へ行く事になりすごく嬉しかったし有り難かった。赴任を前にしてソウルへ寄り、李長官に感謝の挨拶を述べると、李長官は、以前自分が駐印度大使だっ頃、よく助けてくれたことへの報いと言った。私は良いことを行うのは悪い筈無いと心から思ったものだ。
李長官は野心の多い人だった。外務長官職を立派にこなし、それを踏み台にして一層高い所へ上がろうと心に刻んでいたのが明らかだった。それは国務総理の座だった。聘父である李允榮氏が国会の認准を受けられず署理で終わった恨みを晴らして挙げようとの心算であったのかも知れない。
其故、李長官はすぐれた業績を揚げようと過度に厳しく当るような印象だったし、多くの部内職員等がそれを快く思わなかった。代表的な事は公館長採点制の導入だった。公館長の現地活動が不足だとしてそれを活性化しようとの意図だったろうが、駐在国の外務長官を訪ねて逢えば何点、晩餐に招待すれば何点、新聞インタビュー記事が出ると何点、尚、本部の指し図に対する措置が遅れて督促を受ければ減点といった式の制度は、どれほど良く見ようとしても我等の生理に合わない事だったのだ。
普段関係要路と親密な関係を維持している関係で、電話一通で交渉目的を達成する公館長は点数を取れないことに反し、電話では足下にも及ばないので訪問して頼み、夕食を持て成して高価な御土産をあげてようやく交渉目標を達成するか否かの公館長が、ずっと多い点数を受ける不合理性が指摘されもした。
このように可能な方法を総動員して上部より認められようと骨折った李長官だったが、彼は1983年10月、Rangoonで発生したアウンサン蠻行事件で横死を遂げた。あれ程健康で、意地も强靭で、言辯も優れたが、毒氣を含んで飛んでくる凶彈は彼としても塞ぐ術が無かったのだ。
私は非報に接するや駐ベルギー大使館に殯所を整えて弔客を迎えた. しかしそれが何の必要があり、李長官の魂に何の気休めになっただろうか。
翌年公館長会議のために帰国して国立墓地へ李長官の墓を訪ねた私は、ただ人生無常を改めて感じつつ、彼の冥福を静かに祈るのみだった。