[隨筆] 外交は踊る : 崔浩中 [36]
4. バレー
わが国出身バレリーナがロシアのボルショイバレー団で主役を演ずることに誇りを持ちつつ今昔之感を禁じ得なかった。もっとも女性ゴルファーが世界で名を立てており、優れた女性音楽家が世界の至る処で眞価を発揮しているからにはバレーと言って我等が目立たない理由などあるわけ無いだろうが。。。
私がバレーに深い感銘を受けたのは中学校時代に「嘆く白薔薇」という外国映画を観た後からだった。遥か昔のまだ幼い頃だったので映画の筋など記憶に残ってはいないが、父母の反対を押し切ってバレーに専念してついに大成した後に病身を引きずって公演する途中舞台で倒れて息を引き取るバレリーナの短い人生を描いた映画だったような気がする。
しかし実際にバレー公演を観る機会は長い間持てなかった。チャイコブスキー作曲「白鳥の湖水」の甘味なメロディが気に入り、しばしばそのレコードを掛けてバレー公演を目前に描いて見るのがおちだった。
そうしつつ三十年近い月日を送った後、私はマレーシアで大使を勤めている頃初めてバレー舞台実演を見ることが出来たのだ。ソ連のレニングラード・バレー団公演を観覧したわけだ。当時はまだ共産圏と壁を立てて過ごした我等だったが、芸術には国境が無いとの言葉がある如く観ておいて悪いことなど無いとの考えだったが、後でほんとに観て良かったと満足した公演だった。物足りなかったのは有名なバレー全部を公演するのでは無く、数多いバレー作品の中で良く知られた部分だけを切り取って公演した点だったが、だからこそ多くを少しづつでも味わえた長所はあったわけだ。
一つの完璧な正統バレー公演を初めて観たのはロンドンのCovent・gardenで上演された「マノン・レスコ─」だった。有名なLondon Royal Ballet団公演で、私はベルギーに居ながらこの公演を観に行くため船に乗ってDover海峽を渡る貴重な経験をすることも出来た。
Covent・gardenは英国が誇る大劇場らしく雄壯で華麗だった。その時がちょうど韓国公演を終えて帰った直後だったので、その因縁で私達は二階真ん中の貴賓席で観覧する特別待遇を受けることが出来た。
公演が終わり幕が下がると雨雷のような拍手の中で主演バレリーナが再び幕の前に現れ客席に向い答礼をしたが、まるで二階真ん中に座った私に礼をするような錯覚を味わい気分最高だった。
その後私は数回に渡り数多くのバレーを観想した。記憶に残るのは外務長官の頃、韓・ソ連修交が成された後で盧泰愚大統領がソ連を公式訪問した時、Petersburg劇場で国賓待遇を受けつつバレー公演を観覧した事と、韓・ソ連修交10周年を迎えてMoscow Bolshoi劇場で記念音楽会が開かれた時韓・ソ連修交の際主役を担当した事で、私が韓国側代表としてその座に参席した機会にわが国出身バレリーナの優れた腕前を感想した事だ。
その帰路で私はウクライナを訪問した。初めて見る首都Kyevは莊重といった感じの古都だった。そこの丁新大使は我が一行をもてなすと言ってバレー公演に招待してくれた。その国のバレーも国際水準に劣らぬ高い芸受性を誇っていたのだ。
観覧を終えた後大使と日常の話を交す中で暇な時はゴルフを楽しむのかと訊いたらゴルフ場が無いと答える。冬には雪が多く降るか訊くとそうだと言う。それでは長過ぎる冬を過ごすのが大変だろうと言うやそうでは無いと答えるのだ。冬にはバレー公演、交響楽団演奏等芸術を楽しむ、いわばHigh Seasonと言える観て楽しめる物がずっと続き、値段も安いばかりでなく外国大使等には特別席を整えてくれるので毎日の夜が楽しさの連続だとの答えだった。
人間生きる事をどう思うかに依って変ると言うが、何処でも短所があれば必ず長所がある。その長所を生かして外交使節としての特権を享受しつつ賢く身を振舞えば、「人生到處有靑山」であることを実感出来るのだと新たに感じた。
5. 映画
カラーテレビが広く普及すると共に映画の人気が大きく退色したのは事実だが、小さな画面で無く広いスクリーンを観ながら感ずる妙味に惹かれて映画館へ足を運ぶ人も少なくないはずだ。
私は幼い頃から映画を観る事が大好きだった。映画館に出入りしてはだめだという事をよく知りつつも学生服を着たまま劇場を悠々と出入りしたものだ。一度は他学校の指導敎師に見つかり名前まで述べられたが、その事実が学校へ通報された時、「普段素行の端正な学生がそこへ居るわけ無い」と不問に付されたこともある。
私はそんな中で実に多くの映画を観て来たが、今になって考えると観た後満足だった場合よりは時間と銭が惜しいと感じた場合がずっと多かったように思われる。過去我等の立場がそうだったといって涙を絞り出させる悲劇物が昔も今も限りなく出ているが、買って涙をこぼす必要が何処にあるかとの考えで、私は軽いコメデイ物とか又はミュージカル映画を好んで観た。コメディと言ってもただ笑わせるだけのものは面白くない。笑いながらも心の中で何かを感じさせるものが相当あったものだ。
フランスが産んだ巨匠「ルネ・クレル」が監督したフランス映画で「自由を我等に」というのがある。脫獄囚が自転車競技に巻き込まれ、行き過ぎる自転車を奪って走ったが、その自転車が一等にゴール・インする事で巨額の賞金を受ける。その金で小さな工場を設けるのだが、監獄で覚えた一環作業方式を導入したのが奏效し大成功する。
やがて脫獄囚であることがばれると彼はその工場を從業員一同の所有に取り代え、現金をまとめて逃げ出そうとする。所有権の移讓式が厳粛に行われている時に警察が押し掛ける。脫獄囚は銭を入れた鞄を屋根の上へ置いて這い上がろうとするがままならない。その時、吹き捲る荒風で鞄が開かれて中にいっぱい入っている現金が強風に吹かれて四方へ散り広がる。
式に参席した社長、警察所長、有志等誰もがじっとしていたが、辛抱出来ず目前に飛ぶ現金を鷲掴みにする。一瞬場内は阿修羅場に変ってしまう。職位の高下を問わず誰もが現札を受け取ることに熱中する。帽子が剥がれて飛んでいっても気にかけない。その帽子が自分の前に転んで来ると足で蹴飛ばす。対面より何より現金が第一だ。
脫獄囚は捕らえて再び監獄へ送られる。彼は、これが自分に似合う生活だと鼻歌を歌いつつ監獄生活を再び始める。ただ惜しいのは自由だと嘆きつつ。。。
記憶に残っているミュージカル映画も数多くある。原名を貸せば、「Sound of Music」 「South Pacific」 「An American in Paris」 「Singing In The Rain」 「West Side Story」 「Annie get Your Gun」 「Seven Brides for Seven Men」 「Grease」等々数えきれない。
このような名画は軽い心でただ眺めつつ楽しめば良いが、その映画を撮影した場所が知られて観光名所になることもある。マレーシア半島より少し離れた所にTomanという小さな島がある。「South Pacific」をこの島でおもに撮ったといって観光客が集まる所だが、私は機会を狙っただけで結局行けなかった。
スイスのSt. Moritzという所はスキー場で有名で、山水が秀麗ということで世界の富豪達が別荘を持っているのを誇る所でもある。ここでは「South of Music」の野外場面が多く撮影されたと言われる。私は此処だけは逃すまいと家内を伴い車を運転して訊ねてみたがさすが地上楽園のような所だった。
そうする中で感じたのは、我が国にも世界に自慢する程の名勝地が多い故、そんな所を背景にしてミュージカル映画を作ることも出来るだろうが、いまだにそのような動きが無いのは惜しいとのことだった。
幸いにも近年に到りわが映画の水準が急激に向上して、世界の著名映畵祭でわが作品や出演俳優が堂々と入賞する場合が続き、これに依って外貨收入も多くなっているのは喜ばしい事である。尚、釜山映畵祭を初めとしてわが国で開催される国際映画祭が段々場を占めていくのも殊勝なことだ。
映画も有用な外交手段として活用可能だし、またわが国を世界へ幅広く知らせる事も出来る立派な媒介物である故、わが映画の将来に大きな期待を賭ける値打ちがあろう。
6. 演劇
オペラ、バレー,ミュージカル,コンサート等々舞台の上で公演するものなら何でも楽しく観て来た私にとって演劇だといって例外ではない。幼い頃から私は演劇を観るのも大好きだった。
「雪降る夜」と言うものがあった。日帝末期だったが、照明効果で舞台の上に牡丹雪が降っていて主演の男子俳優が、「あ、今日もやっぱり牡丹雪が降る夜だなあ」と観想的な語調でつぶやきつつ空を仰ぐと、でんと銅鑼が鳴り幕が垂れる場面が今も鮮やかに浮かぶ。
「雷雨」と言うものがあった。中国人原作だが、未成年は入場不可になっていたけれども私は17才で青年の間に挟まって入りこの演劇を観た。後に越北した黃徹, 金鮮英等当時の堂々とした名俳優等が登場する劇団「阿浪」の公演だったが、ほんとに未成年者が観るには決まり悪い事を観てしまった。父の妾を息子がコッソリ近付いて天罰にあたり雷に打たれて死ぬなど、その家庭がさんざんになる内容だ。
「血脈」というのもあった。主演女優が容貌も素晴らしかったけれど演技がずば抜けていて、私の目にも将来大成する人物に見えた。彼女が即ち崔銀姬だった。自分の目がその時すでに非凡だったような気がする。
このように公演を多く観て回るのが噂になり、私は自分の通う京東中学校の演劇祭で単幕劇を公演する際主人公を演じた事もある。咸世德原作の「子牛」という作品だが、農村で起る兄弟間の葛藤を描いたものだった。勉強だけに励む模範学生と知っていたが演劇までやるのには驚いたと、皆以外といった目で私を見たものだが、演劇自体はそれなりに見ごたえがあったとの好評を受けた。演劇を書いた人が越北された作家だとの事で指導敎師が警察署へ出向き、調査を受けた事などが思い出される。
大学へ入っては演劇観覧が稀れになったが、六・二五事変が起りその後わが国の演劇も大分衰退したので長い間私は演劇を観なかった。
そうするうち外交官になり、美国ワシントンへ行った時に私は実に久しぶりで演劇を観ることが出来たのだ。演劇を観るよりは主演女優を見に行ったと云うのが率直な表現なのかも知れない。英国出身のVivian Leighが出演する演劇だったからだ。
「Gone with the Wind」 「Waterloo Bridge」等、印象に残る映画で眺めた清楚なVivian Leighを描いていたが大失望、舞台の上に登場した彼女は見るに耐えない程太っていた。あの清楚でか弱い姿が何処へ行ってしまったのだろう。声はまたどうしてあれほど無愛想なのか、一言で愛想が尽きてしまった。
演劇としての動作や表情が見ごたえる程のものでも無く、登場人物ほとんど全部が突っ立ってセリフを交わす事で終始する。それでなくとも聞き難い英語だが舞台の上で言い交わすセリフは尚更だ。実に退屈な時間を送り、劇場を出ながら私自身を慰めた事はVivian・Leighを直接己れの目で見れた事以外何も無かった。
その後十年が過ぎて再びワシントンへ行った時私は妻と一緒に今度はIngrid・Bergmann主演の演劇を観た。その時も結果は同じだった。十年の間に私の英語実力は巧くなった筈だが、台詞の聞き取る能力は10年前と大同小異。でも失望が浅かったのはIngrid Bergmanが私の想像とさほど違わなかったからだ。もっとも、清楚でなよなよしいのがVivian Leighならば、理智的で強烈なのがIngrid Bergmanの印相で、これが容易く変るものでは無いだろうが。
「Casa Blanca」, 「Gas Light」などで熱演していたIngrid Bergmanが未だに健在しているのを直に自分の目で確認することが出来た事実に満足と慰みを抱きつつ、私は結構演劇を観想出来る人物のように頭を上げて堂々と劇場を出た。
この頃わが国で次第に演劇が立つ場を戻していることは結構なことだ。未だに観客が多くないので小劇場を選んでいるのは適切な事と思われる。がらんとした大劇場では公演する人や観覧する人が共に浮かれない、小さくても観客がいっぱいの劇場で演技者と観客が呼吸を共にしつつ公演するのがどれ程浮き浮きする事であろうか。
良い演劇になるためには俳優も重要で演出も重要だが、それより先立って立派な脚本が必要だとの事は云うまでもない。しかしながら不幸にもわが国には誰々と云えば直に判るほどの優れた劇作家が少ない。
私は一時作家になろうと考えながらシナリオを書いてみたことがある。まず容易いもので始めようとの考えでラジオ・ドラマに手を着けてみた。その頃はまだテレビジョンが普及される前だったのだ。
ある日ラジオ放送を聴いていて節電を素材とする啓蒙用ドラマ脚本を懸賞募集することを知った。一つ書いてみようかと考えつつ日を過ごしていたが、締め切り前夜になってやっと夕食後に原稿を書き始めた。時間が無いので草案を綴った後修正して精書するという事は不可能だった。一度書けばそれで終りだ。
よりによってその夜停電になり私は蝋燭を灯して苦労しつつ夜の十二時を越えてやっと脫稿した。自身の無い作品を放送局へ提出し別に期待もしなかったが、数日後発表を見ると当選作は無くて秀作として何遍か選んだ中に私のも入っていた。幾ばくかの賞金を受け取りながら私は自分の非凡な?才能にびっくりしたのだ。
俳優を見る目も非凡で脚本を書く腕前も非凡なら、初めから演劇方面に進出するのが私の行くべき正道では無かっただろうかと考えたことがあるがもう駄目だし遅すぎた。どの職業を選ぶことにするかは実に偶然な機会で決定される場合が多いので、演劇に素質を持った人々がその偶然な機会を巧く捕らえて劇作家に、演出家になり、それから舞台俳優として活気溢れる進出をしてくれることを望む。
そうなると映画やミュージカルのようにわが演劇も海外で頭角を現わす事が出来、国威宣揚も可能で、私のような演劇愛好家は良い演劇を観ながら老後をずっと楽しむことが出来るのではなかろうか。