[隨筆] 外交は踊る : 崔浩中 [33]
F. 公館長會議
全世界に散在している大使等を一時に全部国内へ呼び入れ、毎年公館長会議を開く国は多分わが国しか無いだろう。外国にもそのような例があるとは思うけれどもそれは特別な目的があって一度ぐらい行うことで、年例化することは無いのが普通だ。
わが国も朴正熙大統領時代は地域別に四つで分け、その中二カ所は国内で会議を開き, 残りは国外へ出て会議を開いた。そのおかげで私は本部課長、局長、次官補の時は次官を隨行してBuenos Aires, Sydney, New Delhi, London等地で開かれた公館長會議に参席もした。
それが全斗煥大統領の頃全ての公館長を一つに括り, 全部ソウルへ呼び入れて公館長会議を開くように變更した。それは軍出身の全大統領が公館長会議を軍指揮官会議のように考えた故だろう。実際その一回目会議の際靑瓦台晩餐の前に在外公館長一同は全大統領へ軍隊式に帰国申告をせねばならなかった。
地域別に整列した公館長の前に外務長官が立って待ち、大統領が入場すると公館長一同へ不動姿勢を取るようにした後擧手敬礼して「公館長00名が公館長会議参席のため帰国したことを申告します」と述べるのだった。
当然雰囲気は重くなるしかない。全大統領は準備された致辞を半分位読み続けていたが、突然原稿から離脫して自分が言いたい事を声高々としゃべりまくるのだ。公館長等が外地で安らかに暮している関係で彼等の精神が解弛しているだろう故、これを正すべきだとの考えが明らかに見え透いた。
それでも公館長等は会議参席のため帰国するのが嬉しかった。久しぶりに本国の土地を踏んで見れるし、家族や親知と逢え、溜まった家事整理も出来る故だ。
3、4日に渡って開かれる会議は論議する議題も多いばかりか参席者も多いので、いつもきついスケジュールで追われつつ会議を終える。各公館長は丁寧に参席準備をして帰国したにも関わらず発言する機会が与えられない。経歴を重んじるとして主に先任公館長へ発言権が与えられ、それを気にくわなく思う新參公館長が、勇敢に手を挙げて発言する機会を爭取することもあった。かようにしてやっと受け持った発言機会を善用せず、誰もが知っている事柄をだらだらとしゃべることで大事な時間を浪費する時は、それを黙々と耐えるのが苦痛でもあった。
そんな公館長会議で私が代表役割を行う事になったのは駐サウジアラビア大使として会議に参席した1988年3月だった。公館長経歴八年目に受かった栄光と言えない苦役だったのだ。それは、その時私が参席者の中で最高古参では無かったけれども政治的任命と見るべき特任公館長を外した云わば 「Career Dipromat」の中では私が先任であった故、押しづけられた重責(?)だったのだ。
後輩公館長等は聞き良いように私を団長と呼んで呉れもしたが、私が果たすべき仕事は団長として参席者一同を指揮統率する事では無く、いろんな集まりで挨拶とか答辭を行う一種の代辯人のようなことであった。
公館長会議の日程中最も神経を注ぐのは大統領ご夫婦主催の靑瓦台晩餐だった。私はこの場でも晩餐に先立って乾杯を提議しつつ勧酒辞のような挨拶の言葉を述べなくてはならない。その時私は少し特異な一言を述べるには漢字語を抜いて純粋な我が言葉で大統領夫婦を気持良くさせるのが良いだろうと考えた。
「国事ですごく忙しい中でこのような温かい座を設けて下さりとても嬉しい、ソウルへ戻ってみると誰もが力強く見え、明るく見え、微笑みをたたえた顔だが、これを鑑みると国や民の明るい未来が大きく開くだろう事を容易く感じられる。常に骨が折れて力が要るでしょうが、たゆまず励む事をお願い申し、そんな中で意図する全ての仕事が立派に行われることを両手を組んで拝みます。かような心を合わせてみんな杯を高く掲げることを望みます。」
我等が常に言い合うやさしい言葉でつながれたこの挨拶は場内の雰囲気を柔らかくしたはずだ。晩餐が和氣靄靄な中で進行されたばかりでなく、晩餐が終わりかける頃には盧大統領の提議で余興に繋がれたものだ。
盧大統領はオリンピック組織委員長職を受けた時からどの職位にあろうとも公館長会議の時毎に公館長夫婦一同を晩餐に招待して酒を勧めつつ歌合戦の座を設けたものだ。オリンピック誘致に成功したのは公館長等が力になった結果故その勞苦を致賀するとの意味だった。しかし公館長等は盧大統領が靑瓦台でもそのような楽しい座を続けるとはついぞ考えていなかった。この靑瓦台歌合戦の場で司會を行った私はそのような経験が別に無かったので戸惑ったが、当たって砕けろとの心情でどうにか大過無くプログラムを終える事が出来た。
「心残りはするけれども夜も深くなったのでこれで終りにしましょう。」と云った私の挨拶が拍手に続くや座席から立ち上がった盧大統領がご苦労様と云いつつ私の手を握ってくれた。
外へ出るとみんなが私に近付き立派に司会を勤めたと誉めてくれるのだった。普段物静かで前に出るのを厭がる人が果たしてこの仕事をやれるかどうかはらはらしていたが、それは取り越し苦労だったと云い合う。私の新たな面を発見したと驚く仲間まであった。
後に聞いたことだが、私の司会ぶりが良かったとの事は外務部ばかりで無くその晩餐に一緒だった全人の中で定評になったそうだ。その場に居た崔秉烈文化公報部長官は、かようにうまく司会を勤める人を初めて見たと私を誉め称えた。盧大統領の同壻である琴鎭浩長官はその場に参席しなかったが、私が司会を受け持ったとの話を聞き、盧大統領に「下手だったでしょうね」と訊くと、「どんでもない、すごく巧かったな」と反応を見せたと伝えてくれた。
いずれにせよ私は公館長代表の役割を無事に終えた事に満足しながら自分の任地に戻った。でもただただ嬉しくて誇らしく思う事ではなかった。私が代表になったこと、私が信任者になったとの事は、私も終りが遠くないとの事を蘇らせることでもあったからだ。
私が退いて座を空けてやればこそ後ろに付いてくる同僚が代表になり先任になる機会を持たれるとの事を悟るべきだった。しかし惜しさが残らないとも云えない。ただ長い公職生活を通して自分が引き受けた仕事、せねばならぬ仕事を一心に成しつつ上下の称賛や評価を受けて来た事を自ら殊勝に思うのみだった。
その年がほぼ終わる頃私は全然考えもしなかった大き過ぎる賞を貰った。外務部長官に任命されたのだ。数え切れない程多いはずの長官候補者中私が落點された事由を私は聴けなかったけれども、もしかしたら公館長代表として司会を行っていた私の姿が任命権者の腦裏に良い印象で残っていて、それが決定的な時に決定的な作用を成したのかも知れないと心の中で勝手に考えてみるばかりだった。