[隨筆] 外交は踊る : 崔浩中 [30]
四. 会議も踊る
a. 国際連合(UN )とすてきなダンスを
わが国はUNと特別な関係を結んで来た。たとえ南韓の土地に限定されたことだが、UN監視下で実施された選挙を通じて国会を構成して憲法を制定し、ついに1948年8月15日大韓民国が樹立した。UNは素早くこれを韓半島においての唯一なる合法政府と承認したのだ。UNは素早くこれを韓半島においての唯一なる合法政府として承認した。かようにしてわが国は最初からUNと交わって踊り始めたことになるわけだ。
1950年6月25日、北朝鮮共産軍が南侵を開始するやUN軍は16ヶ国で構成されたUN軍を韓半島へ送り、侵略軍を退けた。それから戦後復旧に物心兩面の支援を惜しまなかった。それにも関わらずわが国は限りなく骨を折ったけっれど独立して50餘年が過ぎても相変わらずUNへ加入出来ずにいた。UNとより親密に交わって踊ろうとしたけれど思うようにならなかった。
我等は月日の流れに従って明暗が行き交うなかで、機会ある度に普遍性原則を掲げてUNへ入るドアを叩いたけれども無駄だった。UN安全保障理事会の常任理事国が携えている拒否権のためだった。
独立したUN憲章に従った義務を果たすとの意思のみ明かせばUNへ入れるとの普遍性原則に従って、数多くの大小国家が、独立するや否やUNへ入るのだが、我々は不当にも入れなかった。南北韓が別々に入ればそれは南北分断が永久化になる故、統一になった後一つの国が加入するのが正しいといった北朝鮮の主張のためだった。
しかしそんな北朝鮮の主張は虚構に浸ったものだった。わが国が独立を成した後UN加入を申し込むや北朝鮮も続けて加入申し込みをした事実があるだけでなく、我々が加入している様々なUN傘下国際機構に北朝鮮も加入し始めたからだ。
我等が残念に思うのは、ソ連や中国がこの話にもならない北朝鮮側の拒否権を成すしかないとの立場を明かしている事実だった。我が政府は統一をいつ成すか知れないからには、我等だけでもUNへ加入したいし、北朝鮮も加入を望むならば一緒に加入してもかまわないと、いわば同時加入政策を掲げた。これは同じ時一緒に加入しようと言うのとは少し違うものだった.
北朝鮮は大分譲るようにしつつ南北が單一議席で加入するのはかまわないと言う。これは我等が受け入れないと知り尽くしつつ,わざとそう言ってみるのに過ぎなかった。この方案はUNで笑い事になった。別に親しくもないのに如何に二人が一つの座に座れるかとみんなあざ笑ったものだ。
それが、わが国がソ連と修交し、世界が改革と開放の新た波に包まれると共に状況が急変し始めた。1991年の秋に開かれる第46次UN総会が近付くなかで、中国は我等と国交をまだ結んではいなかったけれども、様々の趨勢に鑑み、韓国のUN加入を塞ぐ道は無く、塞ごうと無駄な振る舞われば国際的非難を避けられないと判断するに到った。
中国よりこのような立場を通告された北朝鮮は急いで我等より先立ってUN加入申し込んだ。二つの朝鮮を受け入れられないと言いつつ一つの朝鮮だけを固執していた北朝鮮がついに白旗を揚げたのだ。
その年の秋、ニューヨークで開かれた第46次UN総会で、南北韓UN加入問題は実にあっけなく結末された。なんらの賛成や反対発言無しで総会議長が、異議あるかと一言聴き、続けて議事棒を軽く一度叩くことで加入が決定されたのだ。
その場面をテレビで生中継されるのを視聴しつつ、こんなに阿保臭く終わる事であれほど長い間苦労したのが悔しくもあり虚しく、虛妄だとの錯綜な感情で取り付かれたのは私だけだったろう。UN加入に与かった外交官ならば誰もがUN本部の庭に並んではためく南北の旗を眺めつつ言い様のない感懷に浸ったであろう。
その後我が国は実に見事なダンスをUNと踊り始めた。駐UN大使が安全保障理事会の議長職を受けもしたし、外交通商部長官がUN総会議長職を受けもしたのだ。
私は大学へ通っていた頃、政治學徒として政治に大志を抱くのではなく、外交の方へと心を決めていた。将来駐UN大使になるのが夢だった。大学を卒業し外務部に入った二年半目に駐美大使館へ赴任されたのが1958年の夏だった。その年の秋、私は生まれて初めてニューヨークへ行き、UN本部を見回る機会を得た。梁裕燦駐美大使がUN総会の首席代表として政治委員会で演說するのを演說する梁大使を眺めつつ,後日私もあのような機会を持つことを夢見たものだ。
ワシントン勤務を終えて帰国して七ヶ月目に私は本当に思いも因らなかったUN代表部勤務への勤務の発令を受けたのだ。五・二六軍事革命により在外公館長が大幅替わる中で、駐な梁裕燦駐UN大使として赴く李壽榮外務次官が私を連れていったのである。
私は駐UN代表部三等書記官で赴任するために1961年7月中旬に美国の土地を再び踏んだのだ。代表部事務室はEmpire State Building70層にあった。ニューヨークへ行けば誰もが訪れる観光名所の一つであるこの高所건建物は遠くで眺めるにはとてもすばらしいけれども、此処を一日に何度も上がったり下がったりするのはむしろ苦痛であった。
それでもUN本部建物に出入りするのは青年外交官である私には言うまでもない喜びであり、生き甲斐であった。ただ惜しかったのは,UN会員国になれなかったわが代表達は他国の代表と差のある待遇を受ける点だった。オブザーバー資格である我等は傍聽席指定席に座らねばならなかった。その資格では会議に参与出来ず、ただ眺めるだけだった。それでも代表部を置いている我等は唯一の目的は、秋に開かれるUN総会で韓国問題が論議される時、可能な限り多くの国家が我々の立場を支持してくれるよう。前もってたゆまず工作して置く事にあった。
私の駐UN代表部勤務は長続きしなかった。たったの五ヶ月目に再びソウルへ呼び戻されたのだ。ワシントン勤務を終えて帰国して七ヶ月ニューヨークへ発令を受けた事が正常的で無かったわけだから、その結果が良くないのは最初から予見された事かも知れない。
私は革命情神缺如で、勤務態度が誠実でないとの無念窮まり無い、不名誉な罪名を被ってソウルへ戻った。そのような罪ならば外務部を止めさせるのが必然的であるが、珍しくも私はぉのような悲運を受けなかった。なんか誤解があったようだと言いつつ、すべてを忘れて勤務に忠實せよと言うのが上部の指示だったのだ。
このようにして外務部より追い出される処でやっと生き残った私がその後、実に27年ぶりに外務部長官になったのは実に思いがけないことである。駐UN大使になってみるのが夢だったが、大使はおろか三等書記官で不名誉なる外交官人生を終えることだった私が、ついに駐UN大使を含めて外交陣を指揮統率する外交総帥の座に上がったのである。
一つ惜しいのは、私が外務部長官の座に付いていた間わが国のUN加入を実現させなかった点だ。流暢な英語実力ではないけれども、国家を代表して演說しようとの夢が実出来なかった事である。
b. 国際会議場での南北対決
私は一時駐ジュネーブ代表部で勤務した事がある。其処へ本部を置いている多くの国際機構を相手に交渉し、随時開かれる国際会議に参加するのが代表部の仕事だった。私が勤務した1975年頃は、わが国は開発途上国の中で模範的な成功を成している国として認められ、どの会議場でも多くの国々が我等に深い関心や大きな期待を見せていたので、どの会議場へ行っても誇らしく堂々としていたが、一つ細かい注意を要するのは北朝鮮代表の動態を窺う事だった。
以前はUNを非難し,無視し、UN傘下各種の国際機構をボイコットして来た北朝鮮がその政策を変え、数多くの国際機構に加入し、ジュネーブに常駐代表部を置いてからは各種会議に参加してその会議本来の目的など度外視しつつともすると我等を罵ったり自国宣伝をし始めるのだった。
私が赴任してやや過ぎた頃開かれた経済開発に関する会議へ私が首席代表として参席した時北朝鮮では商工次官に見える人が参席した。その会議が開発途上国の経済開発問題を扱う場であったが、多くの代表達がわが国の発展を誉め称えつつこれを見習うべきだといった話を述べるのが実に気持良く聞こえた。
そんな中で北朝鮮代表の発言順序になった。彼はだらだらと金日成首領領導下で北朝鮮が目覚ましい発展をしているとの長広説を述べていたが、突然方向を変えて我等を非難し始めるのだった。南朝鮮が凄い発展をしているとみんな思っているが、事実南朝鮮は美国の占領下にあり、美国と日本の賣辨資本が韓国の労働力を搾取している。それで側で見るのとは異なり実際は砂の上に築いた城のようなものだ。どれほど外貨が無かったら若い女達に日本人相手の売春観光をさせようとするのか、といった内容だった。場内は静かになり、会議参席者等はなんか面白い見せ物でも探すように私の方へ視線を移した。
私は汚辱を被ったようで怒りがこみ上がった。しかしこんな時でこそ冷静になるの大事だと考えた。私は準備した文をゆっくり、そして低い声で読み始めた。誇張無くわが国の経済開発実状を紹介し、我等は力が続く限り全ての開発途上国を助けて共に発展して行く方針だと述べた。続けてわが国は理念と体制を異にする国家等とも協力して行く用意があると力を入れて話した。そう述べた後北朝鮮の話を駁撃し始めた。わが国を敵対しなければこの世の国何処とも協力するとの事がわが国の方針だが、たとえ分斷され互いに戦った事はあるけれども、我等と同じ血を分かち合った北朝鮮と協力出来ないのは実に気の毒な事であると述べた。私としては到底同じ兄弟が大勢の前で争いたくはないので言葉を選んだと言った。尚、北朝鮮代表が我等を非難した話は事実と異なる故これを全的に拒否すると結び終えた。
会議が終わると議長は、私が問題を騒がしく拡大せず物柔らかに結んでくれたことを有難く思うと言った。多くの代表達が私を尋ねて握手を求めた。北朝鮮代表は何時の間に座を外したのか眼に入らなかった。
北朝鮮との対決はこれで終わらなかったのだ。世界保健機構(WHO)総会の時の事である。北朝鮮代表は、北朝鮮の人々が金日成父親の暖かい見守りの下ですべて無料の醫療惠澤を受けていると自慢話を述べた後、新聞一枚を高く掲げて私達を攻め始めるのだった。「これはソウルで発刊されたとある新聞だが、此処には貧しい市民が危篤な母を背負ってあちこちの病院を探し回るけれども入院費を前払い出来ず拒絶され続けたあげく路上で死んでしまったとの記事が載せてある。国民達がこんな待遇を受けているのに経済発展を自慢するのか。北朝鮮はこのような事件が絶対起こらない地上楽園である、といった要旨だった。
無い事を作ってしゃべるのではなかったけれども無情にけしからん話し方だった。わが国の首席代表である文徳周大使はこれを努めて否認しようとしなかった. そのような事は我々がたまに味わう苦い状況の中の一つで、このような事柄を無くすためにみんなで絶えず努力しているし、この会議の目的もそん処にあるのだと指摘した。何よりも過ちを隠さずそれを是正していく努力が貴重なことであると話した。場内は肅然になり、多くの代表等がこれに同感する如く首を縦に振った。私は言論自由が言論統制の前で悔しくやられる一つの実例を目撃しつつ、これをどう受け入れたら良いのか容易く答えを得ることが出来なかった。
もう一つ記憶に残る経験がある。世界気象機構(WMO)総会で北朝鮮が加入問題を取り上げていた時の事だ。わが政府は1972年6月23日にあった平和統一のための大統領特別声明を通して、南北が共に加入しようと提議していたところなので、UN傘下の各国際機構へ北朝鮮の加入を塞がない立場だったが、世界気象機構加入の為には会員国三分の二の贊成を受けねばならないわけなので北朝鮮代表は果してそれほどの支持を受け取ること出来るだろうかと焦るようだった。
投票が間近になるや、北朝鮮を支持するキューバ、アルジェリア、アルバニア、中国等各国代表等が登壇して北朝鮮の加入を支持する演說を始めたし、加入に反対する発言は一つも無かった。
投票を前にして暫し停会になった時、北朝鮮の代表一人が私に近付き、世界気象機構に加入しようとするのをどうして塞ごうとするのかとけちをつける。誰が塞ごうとするのかと言い返すと、白を切るなと言いつつ、もう少し仲好くしようといけずうずうしかた。
私は仲好くしようとしても言い掛かりをつけて南北会談を中断させ、また静かな日曜日の朝突然攻めて来たりするからには仲好く付き合えないではないかと応酬した。すると彼は、南から先に北侵をしたではないかと理屈をこねるのだった。私は前世界が知っている事を以て笑わせるなと皮肉ってから、全ての国際機構へ共に加入して平和的に暮そうと結んだ。
投票結果は予想通り三分の二以上が賛成で、棄権が少しあったのみ反対は無かった。美国代表も登壇して北朝鮮の加入を歓迎すると一言だけ言って下りた。
私も一言話せねばならぬと思ったので発言権を得て登壇した。ひとまず北朝鮮の加入を歓迎した後、多くの代表が北朝鮮の加入すべき根拠として普遍性(Universality)原則を上げたが、そのような原則はそれぞれの専門機構よりUN自体に加入することで尊重し適用されるべきだから、この原則に従って南韓と北朝鮮が共に加入出来るように各会員国が志願してくれたのだと述べた。
すると私が座へ戻るよりも先に北朝鮮代表が発言権を受けて急ぎ壇上へ上がった。彼は結構英語を喋る方だったが、予め準備した原稿無しなので興奮した語調で始まった彼の話は理解し難いものだった。要は南韓代表が政治問題を取り上げたと非難しつつ、祖国分斷を永久化すると言うのは話にならんと述べた。
私はこの点を挙げて北朝鮮代表の発言を攻駁しようと再び手を挙げたが議長は発言権を呉れなかった。南北両方で述べようとする言葉が何なのかすでに全部知っている故、会議の円満な進行の為に協調してくれとのことだった。私は議長の慫慂を受け入れた。これ以上騒々しくやっても得になる事など無いとの判断からだった。
その後も北朝鮮との対決は至る処で続いたけれども金大中政権がいわば「日差し政策」と開いてから間遠になった。衣を脱がせるのは強い風では無く暖かい日差しといった信念で北朝鮮を改革と開放へ導こうとするのが根本目的だがまだ実效を挙げずにいる実状だ。北朝鮮が何ら建設的な反応を見せていない中で我等のみ一方的な善心が続いていて、これは却って逆效果を見せているのではないかとの疑いを醸し出させることだ。
そうして見ると、ともすれば民族を掲げる北朝鮮と連れ合って誠の和解と協力のダンスを踊れる日は遼遠だとの感じを払い落とせないのだ。