[隨筆] 外交は踊る : 崔浩中 (18)
N. 外務部長官
12月10日ソウルに到着した私は、次の日が日曜日なので静かに過ごし、12月12日に盧泰愚大統領より任命狀を受けた。他の閣僚は発令されたその日に任命狀を受けていたので、私独りだけのためのこじんまりした行事だったけれども姜英勳国務総理と金容甲總務處長官がその座に陪席された。
盧大統領は私に多くの期待を掛けていると前置きし、傳統的な外交儀典や慣例に縛られて外交が活気を帯びれないとか失機してはならぬと強調した。軍出身の偉方から度々聞かれた話なので新鮮ではなかったが、私は胆に銘じると答えながらも、内心では儀典や慣例を無視出来ない現実を考えていた。その日の午後に行なった第22代外務部長官就任式で私は、自分自身外交官になったのを一度も後悔したことはなかったことを明し、皆外交官を天職と思いつつ最善を尽くすようにと頼んだ。この話を聞きながら長官になったと偉そうに言うなと内心私をあざけるかも知らないけれども、好きで一生懸命すれば仕事は成されるもの、嫌なことを無理にしては上手く出来るはずがないとの素朴な信念が私にはあったのだ。 外務部へ入ったという事実で誰もが一定水準以上の資質を携えた事を立証する故、上よりさせる道理にただ従わずに、創意力を発揮して外交暢達に寄与してくれよとも言われた。エリート意識の強い外交官達の自尊心を高める言葉だった。なお、そうする中でもし失敗する場合は、その責任を私がもつと付けるのを忘れなかった。
長官に就任した時が年末だったので色々と行事で忙しかったが、初めて任された長官の座が自分には気まずいとか具合い悪くはなかった。たとえ不馴れだと言えどもその場で私自身30余年間育ったからだ。予算国会が大詰めで、與小野大の国会がすごく騒々しかったが、五共色彩を清算し、新たに発足した新内閣だったからか、すこし穏やかに対してくれるような感じだった。
過去とは異なり、すでに結構大きくなった駐韓外交団とのミーティングもごく自然に行なわれた。年末を迎え、慣例に従って外交団の為の送年レセプションを開いた。この場には各国の大使だけでなく、国内各界人士も幅広く招待された。金在淳国会議長の登場が大きな栄光で、金泳三統一民主党總裁と、金鐘泌新新共和党總裁の光臨が異色的だった。外交には與野が無いとのことを象徵する感じだった。
このように始まった私の外務部長官時代は、帰国前夜降った瑞雪が予報してくれたように平坦で順調だった。大きな悩み事柄は無かった代りに嬉しい栄光な事柄は少なくなかった。あれやこれやと忙しく月日を送る中で私は1990年12月12日、外務部長官就任二周年を迎えた。短いと言えば短く、長いと言えば長い二年だった。盧泰愚大統領は比較的度々改閣を成し、二年以上同じ座に居座る閣僚は稀だった。私も在任二年になると、もう平均以上の寿命を享受したからにはそのうち座を降りる時期が訪れるだろうと考え始めた。大幅の改閣は毎年十二月に行なわれていて、マスコミでは何時もながら様々な推測報道を出していた。その中で盧在鳳大統領秘書室長が国務総理になるとの報道は少し信じられなかったが、十二月二十七日の改閣発表の時,これが事実として現れた。そして私は副総理兼統一院長官に任命された. 私より若く大学の後輩でもある盧在鳳総理の下で働くことになったのが気掛かりだったが、致し方無い事だった。
改閣を発表する日の朝、盧泰愚大統領は外務部長官公館へ電話をかけて、その間ご苦労だったと称賛した後、この先統一院を受け持って、自分と一緒に平壤へ行く道を開こうと言う。しかし私はその仕事が容易くないだろうとのことを見通すことが出来た。
二年一ヶ月間外務部長官職を受け持ちながら私が成した仕事が果たして成功的だったかどうかは簡単に評価出来ないが、少なくとも私に未練や後悔は無かった。よく話すことで、後世または歴史の判断に任せるのみだといった巨物然の心構えを含んでみるだけだった。私が長官でいる間行なった事で良かったと思うのは、いわば自己PR時代を迎えて記者会見を週例化した事だ。発表するほどの事が無くてもたがえずに座を作り、記者等と茶を飲みながら関心事に対する話を交わし合うことだった。よく記者等とはうまく話し合わないと言葉じりを掴まれ、予期しなかったとばっちりを食うと言って忌避するが、実際はそうじゃなかった。答弁に困難な質問に答える時は、核心からそれてあいまいに言い紛らす要領も得た。今後どうなるか解らない事について、仮定を前提にした質問に対しては答辯しないことに限ると言いつつ逃れるのも一つの方法である。毅然として急かずに、しかし時を逃さず対処するとの答弁もしばしば使える處方だった。しかしながら言いたい話や知らせたい仕事、正すべき過ちなどに対しては堂々と話して理解を得、広く報道されるように導く効果を上げる事ができた。
テレビに出るのも迷わなかった。マスクが良いとか声が良いとそそのかされて引き込まれたのかも知れない。おかげで自分の顔は相当知られて道行く人からも挨拶を受けたりしたが、その代り、私の言動に制動がかかる不利益も甘受せねばならなかった。国会答弁も、上手く行けば自己PRにプラス出来るが、まかり間違えば面汚しになるしんどい仕事だった。それに、私が長官に就任して一年間は與小野大の政局だったし、外務部を取り扱う外務統一委員会は三つの野党総裁全てが座を共にする,言わば米国議会の上院とか、日本国会の参議院と同じ存在だったので、うまくしゃべれず、他人の前へ出るのを憚る私には国会出席がまっぴらごめんだったが、避けれるわけでもないことだった。本会議での質疑応答は、質問の要旨が前もって提示されるので、答弁を準備する時間があてがわれると共に大部分国務総理へ質問が片寄るため、私には難しさや負担が少なかったが、常任委員会では私のみを相手にし、それにどんな質問が飛び出すか解らないだけでなく、一問一答式に進行される場合が多いので、例えようのない苦役であった。