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インシャ-ラ [三十九] - 崔浩中著

yoohyun 2008. 9. 23. 11:04
インシャーラ
マホメットが生まれたメッカが在るサウジアラビアは、イスラム教の宗主國になりすまして教理を厳しく守り、国民はこれを誇りとしていた。日に五回と決められた祈り時間には誰もが店を閉じ、高速道路を走っていても車を止め外に出てメッカへ向かい何度も何度もひれ伏すのを容易く見ることができる。
何事もアラー神の思し召しに従うべきだというのが彼等の生活信條であった。ことある度に聞く'インシャーラ'という言葉がまさしくこれを意味する言葉なのだ。

この言葉は外交交涉の際われらをまったく苦しい立場に追いこむ。本部の指示を受け、とある事案に対する支持を頼む時、インシャーラを繰り返すばかりの彼等を見ながら、支持するというのかどうか判断に迷う場合が数えきれないほどあった。正確に言えば、もう少し成り行きを見るということだが、本部にその通り報告するわけにもいかず、といって恣意的に判斷して協調するそうだと報告したのがうまく行かなかった場合、責任を免れない危険が伴う。このことは中南米人が何かを頼まれたとき、'マニヤナ'といった反応を見せるのと一脈相通ずるところがある。
'マニヤナ'という言葉は明日を意味するが、本当に明日やってくれると思ったら大変なことになる場合が多い。

しかしこれみな人によるもの、長い間真面に付き合っていると胸を開いてくれる人も出てくる。年を重ねるに連れサウジアラビア朝野各界にこのような好意的人士が増え、私は公私ともにさほど苦労せず生活することができた。

サウジアラビアには王子が数えきれないほど居る。サウジアラビア王朝を開いたアブドウル・アジズ王が、4名まで夫人を認めるイスラム教理を無視し、夫人をたくさん携えそこから子供も数十名が生まれたので、次の世代に至っては王子が百を越えるほどになったのだ。この王子達がサウジアラビアの政界は言うまでもなく経済界を始め各界を牛耳っているため、この中から有力な王子と交流をもつ必要があった。

王子の中に宇宙飛行士として米国の人工衛星に乗り外界を回った来た人がいた。風貌も優れ花婿候補として人気があったが、サウジアラビア王室では従姉妹のなかで優先的に花嫁を選ぶ習わしになっているので、一般人は指をくわえてただ仰ぎ見るしかなかった。
偶然なことでこの王子と親しくなり、官邸での晩餐に招待したことがあるが、共に招待を受けた他国大使たちがどんな謂れで王子とこれほど懇意になったのかと非常に羨ましがった。
この晩餐で特に気楽だったのは、食事が終る頃に行なう習わしのスピーチをやらなくて済んだことだった。スピーチをする場合は予め準備をせねばならず、食事中にもそのことが気にかかりろくに料理を楽しめないので、スピーチをやらないこの國の慣習は何よりも有難いことだった。

ゴルフのメッカ
サウジアラビア國はメッカにある。メッカは回教創始者のマホメットが誕生した処で回教の發祥地になっている。回敎徒は、生きている間一度はメッカを訪れない限り、道理を果たせなかったことになる。そんな謂れでなにごとも新たに始めたところを普通そのメッカと呼ぶ。
ゴルフのメッカはスコットランドのセイント・アンドリュースと知られている。私はサウジアラビアへ向かう前から、ゴルファーならば死ぬ前に一度はそこへ行ってゴルフをやってみるべきだと考えていた。
ブリュッセルで勤務する間、そのセイント・アンドリュースへ行く計画を立てたことがある。ブリュッセルからそれほど遠くない上、駐英大使館に私と気が合うゴルファーが居たので、一緒に行こうと連絡まで取っておいたが、ブリュッセル勤務一年半でソウルへ戻ることになり、計画は水の泡になってしまった。その時はもうゴルフのメッカ巡礼の夢など適えそうもないと、寂寞とした思いにかられたものだ.

私が赴任したサウジアラビアは気候,風習など緒生活条件が不順なところということで、年に二週間の有給休暇を貰う、恵まれた任地であった。私はその休暇を利用してセイント・アンドリュース訪問に成功した。1987年の夏のことである。

ひとまず家内を伴ってロンドンへ飛び、日程を周旋してくれた案内者と共にスコットランドの首都エジンバラに向かった。空港にはどっしりと構えた英国製乗用車が私たちを待っていた。セイント・アンドリュースのゴルフホテルからの出迎えだった。その車に乗って目的地へ向かう約一時間は爽快で、なお希望で胸が膨らむドライブだった。山川も美しかったが、車窓を叩きつつ降ったり止んだりする雨足は、サウジアラビアの索漠な土地から離れたばかりの私たちにはただただ不思議に思えるだけだった。

ホテルにチェックインしたのが昼頃だったので軽く昼食をとった後、さっそく弾む心でゴルフにでかけた。しかしながらゴルフをやるのが考えたほど簡単ではなかった。オールドコースがゴルフの発祥地だが、二月前に予約せねばならず、キャンセルになった予約がある場合は籤を引いて穴をうめるというのだ。しかしその側にあるニューコースなど他のコースは先着順によって容易くゴルフをやれるそうだった。

案内者は途方に呉れたようで、予約係を掴まえしばらく懇請をする様子だったが、やがて明るい顔で私たちに近づき、明日はどうにか見込みがあるから、まずはニューコースを回ることを勧めた。

風雨がよく吹き付けるスコットランドだが、幸いその日は空もきれいに晴れ、私たちは気持良くプレーを始めた。私のティショットは逸品で、フェアウェイ真ん中約200ヤードのところにボールは安着、家内と案内者も失打ではなかった。私のセコンドショットは優れたショットではなかったけれども、よく使う、濟州道オン(グリーンへpar onにはなったものの、ホールまで遠すぎること)にはなった。それが幸運にもファーストパッテイングがよく、15メートルもある距離をいっぺんで成功したのである。

このように私のゴルフメッカ巡礼はバーディで始まり、87という、それなりに満足すべきスコアでプレーを済ませることができた。しかしこれは一種の豫行演習に過ぎず、われらの目的は一途にオールドコースである。プレーが終り、不安な心を抱いてクラブハウスへもどると、スターターが明るい表情で朗報を伝えてくれた。翌日の朝八時に時間が取れたとのことだった。私たちより案内者がもっと喜んだ。所任を果たした安堵感からくる嬉しさだったろう。後で聞いたが、少なくなじを盛って可能にさせたそうだ。人間が生きている所、なすことはどこも同じだと痛感した。

翌朝は激しい風雨だった。ソウルならゴルフなど考えられない天候だが、私たちは諦められない。最初は案内者抜きで、私たち夫婦のみ、結婚10周年の祝にやってきた予約済みのアメリカ人夫婦とプレーすることになっていたが、夫人の方が悪天気でゴルフを諦めたので案内者が加わった。

雨衣の上下をまとった不自由な身でうまくゴルフが出来るわけないのだが、それでも初打は悪くなかった。ツーオンが可能な距離にボールがストップしてくれた。欲を出してセコンドショットを打ったボールは空高く飛んだが、惜しくもグリーンすぐ前を流れる川の中に落ちてしまった。こうしてダブルボギーで私のプレーが始まった。

コースは、若干上がり下りはあったものの比較的平坦だった。周囲に大きい樹木は無いが地上を這う松が多く、そのなかにボールが入ると仕方なく罰点一つを貰い、取り出して打つしかなかった。距離が長い方ではなかったが、海に近く、横吹きの風が荒いので、レギュレーション・オンは私にはほとんど不可能だった。
グリーンが非常に広いのでオンになったとやたら喜ぶわけにはいかない。グリーン両側の端にホールを作っておき、往来二度グリーンを使うようになっているのだ。古いゴルフコースでよく見掛けるが、ここも18ホールをすべて済ませないとクラブハウスに戻れないようになっていた。

最も苦労したのはフェアウェイバンカーであった。フェアウウェイ真ん中にありながらもティグラウンドでは見えないのが多かった。良く打ったと思って近づいてみたらバンカーに落ちている場合が少なくない。まるで砲彈が落ちて抉られたような深くて丸いものが5、6個群れになっているため、それを避けることが難しいばかりか、一度入ってしまうと打ち出すことがままならなかった。

17番ホールはグリーンが広く、でこぼこになっている。いじ悪くも深いバンカーにまっすぐ繋がったグリーンのほぼ端にホールが構えていて、パッティングを少し間違えばオンになっていたボールが再びバンカーに落ちてしまう。ここで、日本の有名なトニー中嶋選手が英国の比重あるゲームでしくじり、バンカーから這いあげるまでに3打を要したため、それまで大きくリードし勝利を目前にしながら優勝の機会を逃してしまったとのキャディの説明に頷けるものがあった。

とにかく私は失敗を犯さなかったわりにスコアは散々だった。ラストの18番ホールは、右側がOBで、小川がフェアウェイの真ん中を横に流れているので少し苦労したが, 有終の美を果たす一念で集中した結果ツーオンに成功した。それがホールから2メートルぐらいしか無い所だった。
昨日はニューコースをバーディで始めたから、今日はオールドコースをバーディで済ませようと心を決め気を張ってパッティングしたが、幸運は私に軍配を挙げてくれなかった。まあゴルフメッカ巡礼をパーで締めくくったことに満足するしかないと思った。

ゴルフを終えた後プロショップへ行き記念品として帽子を数個求めた。セイント・アンドウリュース・オールドコースのマークも鮮やかな、丁寧に作られた帽子であった。一つは自分が使い、残りは自慢がわりに同僚へ分けてあげようと思ったのだ。その時は知らなかったが後で調べるとそれがわが国の製品だった。ゴルフのメッカで韓国商品の優秀性を認め、注文してまで商いしている事実が私を得意顔にさせた.

好い気分になってセイント・アンドウリュースを後にしたが、今後再びこの土地を踏む機会がまたあるだろうかと考えるとうら寂しくなった。しかし一度で満足するべきだ、一度も訪れられないゴルファーが山ほどあるではないか、欲が深すぎるぞ、と自分に言い聞かせ気分を取り直した。