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崔圭夏前大統領來訪 [三十三]

yoohyun 2007. 5. 24. 14:56
崔圭夏前大統領來訪
新たな国へ赴任して1個月あまりしか経っていない時に本國の高位人士を迎え、完璧にご案内やもてなしを行うことほど難しい仕事は無い. その難しさを崔圭夏前大統領が私に背負わせたのだ.

難関は空港から始まった. 非公式訪問ではあったものの、貴賓室利用と、入國手続きを空港の儀典官が手伝ったこと以外は現職高位人士の公式訪問の時のような禮遇は受けられなかった. 最も心苦しかったのはお二人が一般乘客と一緒に一般出入口を歩いて通過するのを見ているしかなかったことだ. かっては一國の大統領だった方に酷すぎると思ったが、自国の慣例だと言うからにはどうしようもない. 無言でこつこつと歩く前大統領夫妻の心境を察し胸が痛んだ.

ホテルに到着したらまた難題が立ちふさがっていた. ちゃんとくスィートルームを予約し,コンフォームまでしたと聞いていたのが、案内された部屋は実にみすぼらしいところだった. 寢室と應接間が別々になっておらず、カーテンで仕切られただけの、さほど大きくないいわばミニスィートルームと呼ぶ部屋だった.
崔大統領夫妻はあっけにとられた表情をしており、隨行員は怒りを含んだ目で私を睨んだ. 大統領職から退いたからといってこんな禮遇をしても良いのかと無言で抗議しているのを感知した. 私はとっさに一策を念じた. これはなんらかの過ちに違いないとひとまず弁解した後支配人を廊下に連れだした。そして値段はいくらでも構わないから大きなスィートルームに代えて欲しいと頼んだ. 幸い向い側にそれに相応しいスィートルームが空いていたので、私は部屋にもどり、ホテル側のミスであったことを確かめたと申上げ、崔前大統領夫妻を大きな部屋の方へ案內した. 支配人も鄭重に誤るジェスチャーを見せてくれた. 一応災難から免れはしたものの、見え透いた仕種のようで落ち着かなかった. 予め部屋を確かめなかった私の失敗を悔やむしかない.

ベルギー国王の弟にあたるアルバート公禮訪, ブリュッセル市廳訪問, ウェリントン将軍の導く聯合軍にナポレオンが大敗したウオータールー激戰地視察等、ベルギーでの日程をなんとか大過なく済せた後、崔前大統領夫妻はルクセンブルクを訪問された. 勿論私と家内が隨行した.

主な目的はアンリ王世子訪問であった. 崔前大統領が國務總理を務めていた頃アンリ王世子の訪問を受け、午餐を催したことがあっただけに相互顔馴染みで, アンリ王世子も崔前大統領を丁寧にそして懐かしく迎え入れた. くつろいだ対話が一時間以上も続いた. それにしても客にお茶一杯出さないのは、われわれの思考方式では到底納得できない. 別れのあいさつを交し車に乗るや崔前大統領は、ソウルであれほど手厚くもてなしたのに、ここでは水一杯も貰えなかったと苦笑したものだ.

すでにお昼の時間になっていたので、私は以前訪れたことのある山村のレストランへ急ぐようにと運転手に命じた. 車で30分の距離である. 30分が退屈な時間になるかも知れないが、あのこじんまりしたレストランで美味しい西洋料理を取れば、崔前大統領夫妻の気分も晴れるに違いないと確信しながら、私はしいてそのレストランが素晴らしいところだとは口に出さなかった.

ほぼ40分かかってようやくレストランの前に到着して私ははっとした。又もや豫期しなかったことが待ち構えていたのだ. 扉に'休店'との札が貼られているではないか! いくらドアをノックしても人の気配が無い. やがて隣の人が出てきて定期休日と伝えながら、少し離れた村にあるホテルの食堂は開けているはずだと教えてくれる親切さを見せた.
火曜日が定期休日とは, 月曜日だったらいざ知らず....

崔前大統領夫妻に幾度も申し訳ないと謝りつつホテルの食堂に着いたときはすでに1時が過ぎており, 大勢の客でてんてこまいのそのレストランでビーフステーキ皿を受け取ったのは午後二時近い頃だった. 何も言わずステーキをナイフで切り、2、3度口にした後すぐフォークを置いてしまう崔前大統領夫妻の前で、私は実際身の縮まる思いをした. 

しかし受難はこれで終わったのではなかった。
私は失點をわずかでも回復するつもりで、歸路は見晴らしの良い山道を選んだ. 外務部長官時代の崔前大統領が、週末になると國內でも海外出張中でもよくドライブを楽しむことを知っていたからで、車窓を通して眺める絶景, 由緖深い古城, 城郭などが夫妻を楽しませることだろうと期待したわけだ. だがこの期待も間もなく泡になってしまった. くねった山道を上がっている途中で崔前大統領が疲れたからもう帰ろうと言いだす. 崔前大統領より夫人がもっと疲れてみえた. 私は運転手に近道を探してブリュッセルへ戻ることを指示した.
かなり道路に詳しらしくすいすいと車を走らせていた運転手が、幾ばくも進まないうちに冷や汗を流し始めた. 道に迷い方向感覺を失ってしまったようだ. しばらくあちこちをさまよったあげく、やっと大通りを見つけ、ブリュッセルに着いたのはすでに日が暮れた後だった.

次の日ブリュッセルを離れデンマークへ向かう崔前大統領に私は深く頭を下げ、色色な面での落ち度を謝った. 赴任して一月足らずなので状況に疎かったのを言い訳にした. 崔前大統領はなんの反應も見せなかった.
その夜官邸にデンマークから國際電話がかかってきた. 崔前大統領を隨行する鄭東烈輔佐官からだった. 何事も意図通り上手く行かない時があるのだ、余り心配しないように、との崔前大統領の指示を伝える電話であった.

崔前大統領が歐洲訪問を終えて帰国した数日後、外務部から芳しくない消息が飛んできた. 外務部幹部會議で李範錫長官が、駐ベルギー大使館はもっとしっかり仕事に励まねばならぬと言ったと李福衡歐洲局長が私に伝えたのである. どんな過ちを犯したのか説明はなかったけれども私は直にそのわけを察した.
儀典とは、上手く果たしても褒められない、いわば元手商売だが, あやまると大きな災いになることを今一度實感しつつ、しばらくの間私は後味の悪い、憂鬱な気分で過ごせねばならなかった.

夏休み
ヨーロッパの夏は休暇の季節である。冬は勿論のこと、春や秋も曇り日が多いので、夏の間の陽光を逃すまいと誰もが海へ山へとバカンスを楽しみに出かける。で、七月と八月は官庁も商店も開店休業状態になるわけだ。

普通一ヶ月の休暇を楽しむのがヨーロッパ人の慣例だが、我らの場合はそうは行かない。国内では3泊4日ぐらいの休暇をやっと貰えるので、海外務めだからといって長い休暇をたのしめるのは憚れる。でも3泊4日は短すぎるので大概10日内外の休暇を使っていた。ヨーロッパにはわが国の公館が10個あまりあり、気前の良い大使はけっこう長い休暇を与えると言うが、経費がままならないので長い休暇を与えると言っても辞退するしかないようだった。

私は夏の休暇を南佛で過ごす計画を立てた。7~8年前ジュネーブ代表部ではたらいていた頃、復活節休暇を利用して訪れた時、ホテルを取られず車の中で苦しい一夜を過ごした記憶が鮮明に残っているところなので、今度こそきちんと計画を立て、あの時の恨みを晴すつもりだった。カンヌ付近のバンガローを予約し、車は自分で運転することにした。次男はアメリカで勉強中で來られず、長男と義姉がソウルからやってきて一行は四名になった。
みんなうきうきしていたが、特に私は心が弾んだ。フランス高速道路を飛ばすときは時速180キロまでに至ったものだ。

カンヌでの一週間は夢のような日日だった。予め計画を立てはしなかったが、一日はモナコ、次の日はニース、その次は遠くイタリアのサンレモへまで行ってきた。浜辺は人でごった返しており、男女かまわず上半身は裸がほとんどだった。やっと成年になった長男が裸の女人像を苦もなく眺めれるのが気になったが、どうしようもないこと、考えによってはこれが生きた性教育であろうと無理に自分を納得させながら、あえて息子とは視線を合わせないように心掛けた。

前の時に果たせなかったモナコのカジノ賭博場にも入った。期待したほど瀟洒ではなかったが、世界各地からあつまったギャンブラーたちが、幸運を祈りつつ金を注ぎこんでいた。私もその中に入り、しばらくルーレットを楽しんだわけだが、賭けが当り少なからずの金を儲かった。ミシシッピーの賭博師ではないにしても、ハンガン(漢江)の賭博師としてこの世界的賭博場で儲けた事はいい気になるに充分だった。博打が長引けばかならず無くすという鐵則にしたがい私はやがて席をたった。

帰路に私達はイタリア北部の険しい山道を越えモンブランで有名なシャモニーへ寄った。人が溢れてモンブラン頂上へ昇るのは諦めたけれども、近くで自然の雄壮さにただただ圧倒されながら見上げるだけでも大満足だった。
ジュネーブで二日を費やし、ドイツ、フランス、ルクセンブルグを経てブリュッセルに戻ったときはみな疲れきっていたが、しかしその疲れに勝る満足感を抱いていた。初めてヨーロッパの地を踏んだ義姉は細々と旅程を日記に寫していた。いつまでも覚えて置きたい旅だったに違いない。