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崔圭夏大統領 [二十九] - 崔浩中著

yoohyun 2006. 10. 30. 09:29
崔圭夏大統領
朴大統領逝去後, 海外に住むわが國民はみな國內政局の動きを見守っていた. 强力な指導者がなくなった空白をどう埋めて行くのか. 再侵の機會を狙っている北朝鮮集團がじっとしているだろうか. 果たして誰が新たな指導者として登場するのか....

崔圭夏國務總理が大統領になるや、マレーシア新聞はいっせいにこのニュースを大々的に報道した. 駐マレーシア大使を歷任した人物が大統領になったことを大きく浮彫りにしつつ、これを歡迎する論調を記した. 私もまた韓·マレーシア關係增進により良く作用することを期待した.
翌年の5月, 崔大統領がサウジアラビアとクウェートを公式訪問する際途中でマレーシア第一觀光休養地のぺナン(Pennang)へ寄り一泊することになった.
かって大使として在任されたマレーシアをしのびつつ静かで和やかなぺナンの海岸でゆっくり休むに丁度良い所だと考えたからだろう.
公式訪問ではないにしても一國の大統領が訪れるということはそう簡単なことではない. マレーシア政府では大統領一行の宿所を提供する傍ら、大統領一行の出迎えに閣僚一人をあたらせた. 崔大統領と親交のあるぺナン州知事は、空港まで迎えに現れ、自分の乘用車のロールスロイスを提供する厚意を見せた.

訪問先への中途で寄った時は萬事がスムーズに運ばれたものの, 帰路のぺナンではうまく行かなかった. 國內の事態が険しくなったからだ. ソウルの光化門から南大門に続く太平路で、十萬を越える學生たちがデモンストレーションを繰り広げているとのことだった. ソウルとの直通電話を通じて耳にはいる事態の成り行きが非常に緊迫な状態だと言うのだった.
崔大統領は、當初二日間泊ることになっていた豫定を変えて1泊だけし、ソウルへ向った. 機内まで上りお別れの挨拶をのべる私にただ崔大統領は頷くだけだった. 國內事態がすごく気にかかる様子で、 表情まで沈鬱に見えた.

光州事態勃發のニュースが入ったのはそれから数日しか経っていない時だった. 事態の惡化をマレーシア各新聞が每日トップ記事として大書特筆する. 光州が血に染まったと赤い活字で綴られたのまで現れた. これは大変なことになったと、心配が募るばかりだった. 駐在國朝野の名士に逢うとか、 外交團の催しに出かけるのが億劫になった.
こんな物騒なことが起きてわが国はどうなるのだ. 自ら大切な国をだめにする気なのか.... と気をもんでいるところへ、軍隊が乗り出して作戰敢行、事態を治めたという知らせが届き、私たちは胸をなで下ろした.
決して二度とこのようなことが起ってはならない. 互いに理解し、助け合いつつ辛抱し耐え抜くのだ. この土地は私たちだけが生きて行くところではない、代代に、後孫に譲り渡す土地なのだ.

第5共和國
80年8月16日崔大統領が退き、引き続いて全斗煥大統領が就任された。國內の秩序は回復され、数多くの變化も起った. 新時代, 新歷史, 新指導者などの新しい口號が生まれた. 不條理を一掃し、社會淨化を行うことで正義に満ちた民主福祉國家を建設するとの政策目標が掲げられた.
外務部にも一大變化が訪れた. 朴東鎭長官が座を引き、盧信永長官が新たに就任された. 意外といえる發令であった. 私にとりわけ気を配ってくれた朴長官が退いたのは残念だったが, だからといって長官の座を無限定に一人占めするのは不可能なことに決まっている. 4年8個月にも渡る最長期長官の記錄と、数えきれないほど多くの立派な業績を残した朴長官は、座を下りながらもさぞかし満ち足りた気分であったに違いない.

盧長官體制になると共に外務部で長い間一緒にはたらいた数多くの先輩, 同僚が引退した. 自意よりも他意による辭職の場合が少なくなかった. 後進を考えて勇退する奇特な例よりは、外務部に対する未練を払いきれず, 又は家族を携えた家長としての生計維持のため、多岐にわたる延命策を試みたにも拘らず座を引かねばならなかった例が多かった. 引退させねばならない理由は色色あったろうが、私はまず人間性が問題になったような気がする. 上司や同僚とうまく行けない性格とか、自分の仕事を責任をもってきちんと成し遂げることの出来ない消極性, 創意性を發揮できず、無事安逸で通す勤務姿勢などが時代的要望に対し逆に作用したに違いない.

外交官の身分を規律する外務公務員法が新たに制定されたのも特記すべき事項だった. 外交官の身分や利益を保障するというよりは、外交官の壽命を制限するのが主目的の立法である. 大使任期が8年に定まり, 公館長の在任期間も12年と制限された. この要件のうち一つだけでも達すれば,誰といわず外務部を退くのだ. この法の發效で直ちに座をはずせることになった多くの元老外交官には、2年間の猶豫期間が与えられた. 50歳を過ぎたばかりの働き盛りの身で、やむなく退けねばならない外交官も少なくなかった. 罪と言えば他人より抜きん出た能力をもっていち早く出世の隊列に加わったことだろう. 若い歳で出世街道を走り出し10年または20年にかけて大使の座を守っていては、後陣の上がり口を塞ぎ人事積滯を招くことになるなり、本義でないにせよ罪となるのだ. 79年4月7日に大使に任命された私は、この外務部公務員法に依ると、大過なく大使職を遂行したとして、87年6月30日には外務部からはなれざるをえない運命に置かれたわけだ. 57歳という年齢がリタイアーするにはちと早い気もするが, その時になると私の外務部生活も30年を越えるので、そのくらい外交界で奉仕したからには、まあ、ゆっくり休むのも悪くはないと考えることにした. なお、その時になれば、外交官としての貴重な經驗を生かして社會奉仕できる新たな道が開かれるかも知れない. 様々な物議を起こしたこの立法が私には意外と淡々と受け入れられた.

副首相訪韓
光州事態で見おくられていたマハチル副首相の訪韓が、その年の9月下旬に實現された. 副首相は将来首相職を繼承する有力者であるばかりか、去る79年5月には北朝鮮を訪問したこともある故、私は彼の訪韓を強く政府へ建議し, それが受け入れられ、訪韓の日程を6月と決定していたのが、光州事態發生で、やむなく延期されていたのだった. 私は訪韓に先だって副首相夫妻を官邸に招待し、晩餐を開いた. 副首相が私の招待に応じたのはたいへんな光栄だった. それに私としては、大使赴任以来、最高貴賓を晩餐に招く慶事でもある.
おいしく韓國料理を取る副首相の様子も喜ばしく, 酒を飲まない慣例を破ってワインを飲んでくれたのもありがたかった. 乾杯しながら、韓國訪問に大きな期待を賭けていると話す副首相夫妻は、滿面によろこびを笑みをたたえていた. 晩餐が進む間、副首相夫妻が北朝鮮を訪問したときの逸話が披露された時には場內にどっと爆笑がわいた.

副首相夫妻は、平壤に到着した日から毎日醫師の診察を受けねばならなかったという. 不思議に思いわけを問うと, 貴賓を招いたときは特別な配慮に基づいて、健康管理上の診察を毎日行っていると答えるのだった. 副首相は、私は元來醫師で, 家内も醫師であるから自分達の健康狀態は充分わきまえている、診察は不要だと思うと告げると、上部の命令だkら診察を続けねばならないと、ゆずらない. 変な気がしてこっそり眞意をさぐってみると、副首相夫妻が金日成首領と面談する時、もしも彼らが病を抱えていたらその病を移す恐れがある故、前もってこれを豫防するため行っている告げる. これをきいて不愉快になった副首相夫妻は、今後ずっと診察を受けねばならないならば訪問を中斷して帰るまでだと、斷乎とした態度を取り、ようやく診察から免れたとのことだった.

また、金日成首領との面談後の午餐の時も滑稽なハプニングが起ったという. 午餐がおおよそ終りに近くなる頃、北朝鮮側の一人が副首相夫人に近寄り、午餐を開いてくれた感謝の旨を立ち上がって述べて欲しいと小さな声でささやくのだった. 副首相夫人が、そんな挨拶は自分の夫がするのが慣例だと言うと, 北朝鮮では、主賓の夫人が述べるのが慣例であり、金日成首領がそれを望んでいると、これはまったく勸誘でない强要であった. 途方にくれた夫人が副首相にちらと眼を向けると, ただならぬ気配を感じ取った副首相が、仕方ないから簡単になにかしゃべれと合図をしたという. 夫人は、前もって準備したものが無いので、二言三言述べるのにも全身から汗が吹き出す、妙な経験をしたと述懷するのだった.
このような経験を抱いている副首相夫妻が、韓国の地を踏んだ後、帰ってきてどんな経験談を語るだろうと思ったが, 決して北朝鮮のような苦笑いのでるナンセンスを経験することはないだろう自ら確信した.

ミハイル副首相は全斗煥大統領が大統領になって最初に迎える外國の高官だった. 私も全大統領に初めて逢うわけだ.
副首相は儀禮的な挨拶を述べた後, 韓國は光州事態以後まだ秩序が回復されないまま、混沌とした状態が続いていると聞いたが、実際到着してみると、そのような痕迹はなにも見当たらず、完全に秩序を回復しているのでびっくりした付け加えながら、これみな全大統領のすぐれた領導力のおかげだと思うと言った.
全大統領は、その觀察に対し感謝すると述べ, しかしながら、一人の領導力ではそれほどの力が出せないことで、全国民の団結した努力により急速な秩序回復をもたらしたのだと、謙遜な返答をした.

このようにスタートした副首相の訪韓は順調に運ばれた. 商工部長官職も兼ねており、マレーシアの經濟開發の主役となっている副首相は, 資源の乏しい韓國が、なにを以てこれほどの經濟發展を成し遂げたのかを知ろうと熱意的だった. 唯一の資源である人力を開發し、立派に活用している秘訣を教えてくれと言う.これに対する色んな說明の中で、國民入營政策に従い軍に入隊した若者たちが、規律、服從、勤勉の團體生活を学び, 一人一技の方針により、技術一つづつを見に付けたことが大きな效果を現すという說明に,とりわけ關心を示した. マレー人, 中國人, そして印度人が混ざって暮している自分の国では、様々な政治的、または社會的問題が絡んでいるので、徵兵制度實施などもっての他だと、残念そうに吐露するのだった.

慶山のセマウル模範部落を訪問した時は、展示された寫眞を通して過去の茅葺き陋屋が石造改良住宅に変わったのを眼にし, 13年間のセマウルキャンペーンにより、個人所得が平均17倍も増加したとの説明も聞いた. その村で運營している、プラスチック廢品を利用して靴骨を作る小さなセマウル工場が、所得增大に大きく寄與している實狀も確かめた.
慶州に寄って、きらびやかな文化遺産を見回った後, ヘリコプターで玉浦造船所や昌原工業團地などを隈無く観察し、今日の韓国の限りないパワーも目擊した. もともと寡黙な副首相だけに、黙黙と日程通り視察を続けたが、心の中では、韓国を手本にしてより多くのものを学ぼう, マレーシアも韓國のように發展出来ない謂れなど何処にもないはずだ、と固く決心したに違いない.