[隨筆] 外交は踊る[45 ] : 崔浩中 - 번역 [飜譯]/韓日飜譯 [한일번역]
d. 朴東鎭長官
朴東鎭長官は恐らく永遠に破れない事と思われる最長寿外務長官の記錄を保っている。在任期間が長々と四年十ヶ月にもなるのだ。そうだと言ってかの長い間ただ安逸に長官座を守っていたのでは無く信念に従いつつ満足に所任を果たせた事で誰もが羨ましがる存在だ。
朴長官は1975年12月, 駐UN大使だった時長官に拔擢された。実は外務長官に任命される事を前以て知っていたのだ.
その年UN総会で韓半島問題に関する西方側と共産側の相反する決議案が同時に可決される異変が発生するや、この問題を以て朴正熙大統領主宰で御前会議が開かれた。この座で金東祚長官が韓国問題のUN上程方針を固守すると主張するのに反して, 朴大使は不上程の方針で政策を轉換する事を建議したのだ。その座では結論が出なかったけれども, 翌日朴大統領は朴大使を別に呼んで彼の建議を受け入れることを明し、この際外務部を引き受けてくれと言ったのだ。
移任手続きを踏むため静かにUN代表部へ帰った朴大使は、長官発令を待ちながら外務部運營方案を構想する時間的余裕を持つことが出来た。
朴長官が就任後みんなを驚かせた事は大幅な本部幹部陣の改編だった。次官補, 企劃管理室長, 儀典長. それに多くの局長が一時に代わった. それさえも新人を迎え入れる事で、その座に居た人々は補職無しに本部待期発令してしまったのだ。これが月曜日の朝に行なった人事措置だった関係で、とある新聞はゴシップ欄にこれを「月曜日の朝の大虐殺」と皮肉ったし、そのおかげで駐ジュネーブ代表部公使で居た私の名前三字が企劃管理室長に起用されたと、比較的大きな活字で新聞の一面に印刷されていたものだ。
私がジュネーブ勤務一年目に本部要職に抜擢されたのは朴長官との長い因縁が元だった。私が1956年4月に外務部へ初足を入れた時、朴東鎭長官は初代儀典局長として局を創設しておられた。私はとある先輩の紹介で朴局長を訊ねた事があったが、その故か朴局長は私を儀典局旅券課に配屬させて下さったのだ。公務員生活を始めたばかりの私には朴局長が天のような存在だったけれども全然怖くは感じなかった。考えてみれば温かい人間関係がこの時すでに芽生え始めたようだ。
朴局長は駐英參事官を経て5・16革命後外務次官に任命され、在職わずか四ヶ月目に駐ベトナム大使に転任された。それから長官に任命されるまで14年という長い歳月をベトナム、ブラジル、ジュネーブ、そしてニューヨーク等地へ転戦しつつ月日を送った。私はこの長い期間中朴大使の下で働いた事は無かったけれども、隔意の無い交信が行き交い、機会ある度に懐かしい再会を楽しんだ。
朴長官が就任された時、最大の難題は対美関係だった。わが国内の人権問題、それに謂わば朴東鎭事件に代表される対美ロビー活動等により、韓・美関係は極惡の状態だったのだ。朴長官はこれを不便な関係と呼び, その解消を急先務とした。この不便な関係との言葉が当時の状況を、短くてうまい表現だと受け入れられ、新たな新聞用語になったものだ。
朴東善事件解決の鍵は、朴氏を召喚して訊問するという美国要請にどう対處するかにあった。主権国家の体面上そんな要請に応じられないとの強硬論が支配的だったけれども、朴長官の考えは異なった。朴東善氏を美国へ送る事で早く圓滿な解決を見れるのが国益に役立つといった確信があったのだ。朴大統領主宰下で対策が協議される場で、朴長官は控え目に意見を話したが朴大統領の激怒を受けただけだった。それは朴長官も予想した事だったが、他に妙案が無いからには自分が十字架を背負うしかないと、悲壮な覚悟をなさったようだ。
沈鬱な雰囲気の中で此れと言った結論を出せなかったまま座を外すと、誰もがこれは大変なことになったと思いながら自分の事務室に帰った。朴長官は尚更だった。午後ずっと執務室で誰にも合わず独り閉じこもり自分の去就問題について苦心した。
ほぼ午後六時になった頃電話のベルが鳴った。靑瓦台との直通電話だった。受話器を取った朴長官の耳に大統領の重い声が聞こえて来た。
「私だが、今朝朴長官が述べた話、それしか他の方法が無ければそのようにするしか無いな」。
それだけだった。
このようにして美国へ渡った朴東善氏は、ややこしい審問節次を難なく交わしたし、その結果で韓・美間の不便な関係がだんだんほぐれ始め、朴長官は朴大統領の分厚い信任の中で難無くその座を守り抜くことが出来た。
私が受け持った企画管理室長という座は、長官が信じて任せる予算や行政、人事等の重要業務を勝手に扱う中央官序の要職だが、私はその座で自分なりに実権を行使し、在任六ヶ月目に經濟次官補になった。それに職級も一つ上がり、企劃管理室長へ補職される際に一つ上がったのを合わせると六ヶ月間で二階級も特進した結果になったのだ。すごく稀れな事だった。
經濟次官補は、朴大統領主宰下で開かれる月例貿易振興拡大会議で直接報告する事を主な任務としていたが、朴長官は可能な限り多くの国を見回り、在外公館を激励することが必要であると言いつつ、私を度々海外へ出張させた。そればかりでなく、外相会議、公館長會議等, 外遊の機会にも私を隨行員に含めて連れ出した。
そのおかげで私は欧米、亜細亜、大洋洲地域は勿論、南太平洋のFiji, Papua New Guineaなど 亞細亞, 大洋州地域は勿論のこと, カリ─ブ海域のGrenada, Barbados, Jamaika, アフリカのCameroun, Kenya, Ethiopia, Gulf海岸のQatar, Oman, Bahrain等、なかなか行き難い国を含めて、共産圏を除外したほぼ全ての地域をあまねく旅行しつつ、見識を広め、異様な風物を楽しむことが出来た。これは馬年生まれで歩き回るのを好む自分の趣向にも合い、私をすごくうれしがらせたものだ。
朴長官も旅行を好む方だった。飛行機に乗るとひとまずネクタイを外しながら、さて、世上の事を少し忘れても良さそうだ、と安らぐのだった。食べ物の嗜好も良い方で、カクテル2、3杯で気分をほぐした後、乗務員が持って来るナイフ、フォークを自らきれいにテーブル・セッティングし、これが一流French Restaurantと何が違うかと満足するのだった。
朴長官は酒の座も好んだ。あえて酒の座と言うのは、朴長官が酒を相当飲む方でもあるが、酒だけで無く同席した人達、雰囲気、料理、それに余興も含めて、その全体を好むというのを表現したいからだ。
朴長官は一日の日課が終り夕方の約束が別に無い日には、なにか面白いことは無いかと私に電話をかけてくるのが常であった。高い座に上がり行動の制約が大きかったが、朴長官の擧動はすごく庶民的だった。度を超さない冗談も喜んだ。私は雰囲気を生かすため旨くもないのにマイクを掴んで楽しく唄ったものだ。
朴長官はゴルフも好んだ。物凄い長打だった。Tee Shotをする際、臀部を左右に一度づつ振った後ボールを力一杯叩き付けるスタイルは、ちと可笑しくて眺める人々に笑いをこらえ辛くさせたものだが、旨く当ったら怖いほど飛んで行った。だが朴長官は細技には弱かった。でもApproachとPuttingには別に神経を払わないように見えた。一度好快長打を飛ばせたら良し、スコアを減らそうと骨折る必要なんか無いといった態度だった。
世の中では、度胸の良い事では金東祚長官が最高だと知っているが、私が見る限り朴長官の度胸も手強い方だった。当時儀典局長の旅券申請者に対する身元調査問題を以て、外務部と内務部の間で摩擦が起った事がある。内務部治安局で、外務部の身元照査結果回報綜合意見で、海外旅行が適合、不適合と判定されたのが朴局長には気に入らなかったのだ。外務部で依頼した身元調査の結果だけを回報すれば良い事で、外務部で成すべき海外旅行適否判斷をなぜおこがましくも治安局長がするのかとの不快感を表明したのだ。
この事で悶着が起き、「飛ぶ鳥も落す」との金宗元治安局長が電話をかけて、「私は金宗元ですよ」と大声をあげるや、「私は朴東鎭ですよ」と、1センチも引かなかった事は知る人のみ知る逸話である。
公務員が現代アパートの分讓をを特別に受けたとの事でトラブルが起きた時の事である。国会外務委員会で野党の重鎭である李哲承議員が外務公務員の中にも関連する者が居ると言うが、どんな金でアパートなどを買うのかと問い詰まるや、答辯に出た朴長官は李議員が座っている反対側を見ながら、公務員という言葉がなんか貧困の代名詞のように使われるのは残念な事であると話し始めた。たとえ薄俸にあえいではいるけれども、自分なりに使命感を持って国に奉仕していると自負すると述べ、外務公務員の中にも優れた父母を持つとか妻の実家を旨く択ぶと、アパートを持つことも可能ではないかと言った。愛敬と見られる事も出来るが、相当の度胸でなければ敢えて見せられぬ答弁態度だった。このくだりは次の日、各新聞に面白く紹介され、朴長官の株価が公務員の間で大きく上乘したものだ。
朴長官が韓・日外相会談のため日本へ行った時、宮沢喜一日本外相が晩餐を設けた座での事だ。朴長官の日本語が優れたことに驚いた宮沢外相が、自分より日本語が旨いと褒めるや、朴長官は大学時代日本へ留學したおかげたと言った後、そんな関係で学兵に引き出されすごい苦しみも味わったし、便衣隊に編入され北支那の冬夜を路地で酷寒に震えながら夜明かしもしたが、それより耐えられなかったのは上官の理由無しの鞭打ちだったと言った。
何度も脫出しようとしたが監視の目のため意を果たせなかったけれども、そのような物凄い苦痛を味わったおかげで、もう大抵の苦痛は苦痛とも感じないと結んだ。それは朴長官が実に図太く日帝治下の苦難を日本官僚等に再認識させた一つの痛快な場面として私は受け入れたものだ。宮沢外相がなんと答えたら良いか知らず、仮題を交わそうとあわてふためく姿を見ながら苦笑を止めるのが難しかった場面は記憶に生々しい。
私は經濟次官補一年半目で政務次官補になった。謂わば企劃管理室長まで含んで本部の三要職をあまねく経たのだ。これも朴長官の特別配慮のおかげで、外務部發足以來前無だったのは勿論の事、恐らく後無になることだろう。
本部勤務三年を満たした後、私は初任大使として1979年4月マレーシアへ赴任した。その座は崔圭夏大統領の場合のように外務長官を出しもしたが、私の前任者もCamerounとPeruで大使職を経た後で行けた所だっただけに、初めて大使として出ることになった私には破格的な座であると誰もが羨ましがった。
その年の十月に朴大統領が弑害されて、崔圭夏大統領に引き続きその座へ上がった全斗煥大統領が1980年9月に初の改閣を行った時、朴長官は盧信永駐ジュネーブ大使に座を渡すことになった。朴長官は全斗煥大統領と知らない間ではなかったし信任も厚かったが、4年10ヶ月も守って来た座で在る故、もっと欲しがれない状況だったのだ。
朴長官はその後国会へ進出して外務委員長に選出されもし、統一院長官として內閣に、駐美大使として外交界に復歸もしたが、その生涯の全盛期は何と言っても心行くまで望んだ事を全部やりながら大きな働き甲斐を感じた外務長官時代であったことは間違い無い。私もおかげさまで自分の生涯で生き甲斐ある愉快な時季をあまねく本部三役に就き、朴長官の下で楽しく過したのは間違い無い。
朴長官は外交界の為のラスト奉仕として韓国外交協会会長に居ながら大きな業績を残した。立派な協会会館を建立し、堅実な財源を確保することで協会をしっかりと磐石の上に載せたのだ。なお、後に朴會長の後を私が継ぐことになったのは明らかに偶然な事では無いと思われる。
'번역 [飜譯] > 韓日飜譯 [한일번역]' 카테고리의 다른 글
| [隨筆] 外交は踊る [46 ] : 崔浩中 (0) | 2018.08.16 |
|---|---|
| [poem] 박노해님의 시 한편 (0) | 2018.08.10 |
| 도종환님의 여름시 (0) | 2018.07.31 |
| 京鄕新聞 [社說] 2018年7月23日 (0) | 2018.07.26 |
| [隨筆] 外交は踊る [44 ] : 崔浩中 (0) | 2018.07.13 |
